顎髭を蓄えて洋木を燻らせる男性でなく、黒髪を後ろで結わえた健康的な人妻の咖喱屋さんが良い。届かない彼女に触れたくて必死に手を伸ばす少年は焦げの深みを知る。僕らはその深みを人生の象徴的な味わいとしていくのだ。「心とはいかなるものを言うやらん墨絵に書きし松風の音」そんな歌を遺した一休禅氏は人妻の咖喱を作る後ろ姿を、人妻の薬指にはめられた指輪を見て何を思うだろう。
「Bitterness of curry written in picture」
咖喱とは何か?あまりに普遍的で古典的な問いにTimofeeは接近していく。ハレー彗星を見て、彼女は生の短さと宇宙の大きさを知るが、僕らは咖喱とは何かという問いを通して、Timofeeの小ささを知り、人類の叡智の偉大さを知るのだ。
無数の人間はこの問いに頭を悩ませてきた。ある者は浴槽で、ある者は便所の上で云々と低い唸り声を響かせた。
答えは材料にあるのか、料理過程にあるのか、或いは出来上がった料理の香りや味などの要素にあるのか。刺激的とは言い難い思考の沼地へと僕たちは足を踏み入れえるべきか。それもまた一興と言えるかもしれない。しかし、Timofeeはあまり汗水流し、泥水浸かるようなことは好きではないし、多数が右に夢中なら、Timofeeは上を向いてハレー彗星の到来に胸をときめかせていたい。そこで咖喱とは何かという問いに対し、不完全な帰納的推論に基づき、大胆な仮説を提案し、それに基づき、いそいそと咖喱を作ろうと考える。もしも仮説が誤りだった場合、僕たちに残された道はあるのだろうか。複雑な分業体制を根底に据えた高度資本主義社会においてTimofeeの吸える酸素は残されているのだろうか。資本主義が流動的故に平等主義であるならば、僕たちは荒波に飲まれ、太平洋の塵となり、ある日の雫として、この地を潤すだろう。
仮説に入っていく。
①咖喱的な文化を共有する共同体が咖喱という民族を作り出したのか。つまり、咖喱民族とはスパイス、香り、味、料理工程と言ったある種のシステムと考えられる。
② ある料理らが己らを咖喱という民族と認知することによって、咖喱的な文化が定義され、咖喱という民族が作られたのか。ここでいう咖喱民族とは忠誠心、信念、連帯感等により作られる人工物と考えられる。
まずはこの二つの定義の枠組みを検証していく。
今日はここまで。
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