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【あじさいプロジェクト】大熊町聞き書き活動11 栃本さちえさん

2020年12月20日、栃本さちえさんに聞き書き活動をさせていただきました。栃本さんは震災以前、大熊町の小入野地区に住み、田んぼでお米を育てながら、福島第一原発(通称イチエフ)のすぐ近くで喫茶店「春風」を経営されていました。現在は会津若松市にお住まいですが、避難指示の解除された大熊町大川原地区に新たに家を建て、その一階部分を利用した喫茶店の再開を目指して準備されています。



● 震災までの栃本さんの生活


11時に喫茶店を開けて、お酒を出さないお店だったので、7時がオーダーストップで8時ぐらいまでという感じですね。家から喫茶店まで4キロほどあったので、毎朝車で運転していきました。原子力関係、東京電力も含めて関連小会社とか、そこに来るお客さんが中心でしたね


オムライスとチキンかつトマトチーズ焼きが名物でした。オムライスはものすごいボリュームで、オムライスを注文すると、食べきれなくて、それを持ち帰ってお土産にするお客さんもいました。原子力発電所からは、外国の人たちもいっぱい来てくださっていたんですけれど、その外国の人たちはチキンカツトマトチーズが好きでした




<栃本さんが経営していた喫茶店「春風」のボランティアによる草刈り前後の様子 >



田んぼの仕事は喫茶店を開ける前の時間や休日にやっていました。うちのほうの行政区だと、補助してくれるライスセンターとか、刈り取り組合があり、田植えや稲刈りをサポートしてもらっていたので、あぜ道の草刈りをする位でそれほど手はかかりませんでした。1町2反9畝の田んぼで、大体耕作していたのは9反で、残りの3反ぐらいは大豆を作っていました。大豆のほうもライスセンターの人たちが、種まきとか、除草作業とか、フォローしてくれていたので、そんなに手間はかからなかったんです

※一町=約1万平方メートル、一反=約1000平方メートル、一畝(いっせ)=約100平方メートル



● 地震発生当時の記憶


あの日は大熊中学校の卒業式で、卒業式が終わった後にお母さんたちの親睦会があったんです。その方たちが帰ってから、ちょうどそのとき手伝ってくれていた高校生の姪と、あとお客さんが1人いて、3人でいるときに地震がありました。地震が起きてドアを開けて、それが落ち着いたと思ったら、また大きい地震が来たんです。まずはお客さんに帰ってもらって、姪は携帯電話がつながらず親も心配しているだろうと思って送って行きました


姪を送った後、自分の家の方も気になるので、海のほうを通って家に行こうと思ったんですけれど、そのときに大熊町と富岡町の堺にある境川の近くの道路がすでに濡れていたんですね。それで「ん?」と思ったけれど、全然津波のことは頭になかったんです。それでもどうもそのまま直進する気になれなくて、しばらく車を止めてなんとなくおかしいなと思って引き返しました


多分津波の第一波だったんだと思います。避難した後に、境川のすぐ近くの小良浜というところに住んでいた親戚と連絡を取り合ったときに、物置とか、そういうものはみんな流されたって言っていたので、やっぱり津波で道路がぬれていた状態だったんだと思うんです



● 公民館や小学校を転々と、事故直後の避難生活の様子


(地震があった後)店に戻って片付けをしようにも、電気が停電になっていて暗い中で作業してもケガするだけかなと思って、一旦家に帰ろうと思ったんです。家に戻る途中、小入野地区の公民館の前を通ったら、私の家の門口のところが陥没していて車で家には行けないと言われました。それで小入野地区の公民館にみんな泊まるから、一緒に泊まろうということで、自宅には一度も戻らないで、公民館にとどまりました。


公民館は停電はしていたんですが、発電機を持ってきてくれている人がいて、電気は使うことができていましたし、テレビも映っていました。そうしたら、テロップで原子力発電所で放射能が漏れているみたいなことが流れて、役場のほうに確認したら、公民館ではなく、今度は大熊中学校の体育館のほうに避難してくださいということになって。だからそちらに避難して、町の人たちと合流して大熊町中学校の体育館で、その日の夜は過ごしました


次の日、バスで都路(みやこじ)※の小学校体育館に避難していたんですけれど、その日の夜にもう一度避難区域が拡大されて、船引(ふねひき)※の小学校にまた移動しました。ちょうど小学生たちも学校がしばらくお休みということで、みんな教室とか、廊下を借りて、避難しましたね。毛布はたしか都路のときに支給されたんです。1人1枚とか。あと都路の人たちが自分の家で使っていない毛布を提供してくれて、夜の炊き出しではおにぎりとか、バナナなどを出してもらいました。その時に支給された毛布を一応各人持って、船引の小学校に移ったので、それを敷いたり、掛けたりして、過ごしました

※都路、船引:

いずれも大熊町に隣接する田村市の地名。大熊町から避難した人は、当初田村市が引き受けてくれることになっていた。都路地区は大熊に近く、船引地区はさらに内陸側になる。




<大熊町と避難先自治体の位置関係>


その後は、三春町のデンソーに避難したんですね。避難中に三春の友人宅に泊まりに行かせてもらいました。友人宅のお風呂を借りた後、急に高熱が出てしまい、友達のところに1週間ぐらい世話になっていました。その後、(大熊町としては)会津若松のほうに移動するというふうに聞いたので、三春の友人がこのままここにいてもいいよとは言ってくれたんですけれど、車もない状態で不安があったので、親戚と一緒に東山温泉に避難しました


東山温泉では、親戚と一緒にホテルに1家族として避難させてもらいました。親戚は家族が5人でした。ホテルの部屋は6畳一間と8畳一間でした。8畳を親戚の人たち5人が使って、6畳の部屋を私が使わせてもらいました。オジャマ虫でしたが、皆さんに浴してもらって一緒に寝泊まりさせてもらいました。車も持ってきていなかったので東山温泉は助かりました。そんなときに、従姉妹の旦那さんがアメリカにいて、従姉妹のお子さんがLAにいたので、そこに一緒に行かないかと誘われ、アメリカに約3ヶ月いました。その後は仮設住宅か、借り上げ住宅にひとまず落ち着きたいと思って、また若松に戻ってきました


● 突然始まった避難生活での様々な困難


避難生活の中で大変だったことは、いろいろあるんですけれど、一番は日用品ですね。歯ブラシやクシ、タオルとか、そういうものを持ち歩いていなかったので、大変でしたね。爪切り、歯ブラシとかそういうものもみんな売り切れていて大変でした


あとはバスで避難途中、同じ行政区の奥さんが糖尿病でインスリンを夜打たないといけなかったそうなんです。でも、家に帰らずにそのまま避難だったので、バスで避難している途中に血糖値が下がってしまって、急に意識が薄らぐような感じでした。その時はご主人がすぐに口にアメを入れて、救急車を呼んでもらい、都路の診療所にで対応してもらったんです。長く避難するとは思わず、日用品や薬、貴重品もとかも家に取りに戻らずに避難したので、そういうことも含めて大変でしたね


避難訓練に参加していた人たちは一旦家に戻って、必要なものを取りに戻って、それで避難所に行っていたんですよ。私はそういうことをやっていなかったので、家には戻らずに、そのままみんなと一緒に行動していました。そういう甘さはありました。津波も一応町としては、6メートルぐらいの津波は来るという想定で、勉強会はしていたんですね。でも今回は想定外の13メートルで大きかったと思います。



● 栃本さんが語る大熊町の魅力


(震災以前の)自宅は標高30メートルぐらいの高台にあって、自分の家の庭から太平洋が見えたんですね。初日の出とかも、自分の家から見えたりしていたので、それが一番かな。農業と、あと海のある風景と、海から見える日の出とか、そういうものが


それから小入野地区は全部で40数戸ぐらいなんですけれど、戸数が少ない分、結束力もあったし、皆さんすごく面倒見が良くて。私も元々生まれが小入野ではなかったんですけれど、ご近所の人たちがすごく良くしてくれて、もちろん(今でも)お付き合いはさせていただいていますけれど、すごく住んでいて、環境だけではなく、人とのつながりもいいところでした


(震災以前の大熊と今の大熊では)同じようなところを探すのが難しいというか。JRは開通したんですけれど、役場の場所が違いますし。それに震災前は梨農家さんがいっぱいありましたけれど、梨の木はみんな切り取られて更地になっていますし、あと駅周辺も解体が進んでいて、建物が徐々になくなっている感じだと思います。最初に梨畑がなくなって更地になっていたときは、びっくりしましたし、「ええ!」と。あんなに梨の木があったのが、更地になっていたというショックもありましたし、今まで買い物をしていた場所が、段々朽ちていって崩れていて。そういうのはショックでしたね



● 「こういう事故はイチエフだけで」栃本さんが語る災害と原子力


原発の建設が始まったのは、私が中高生のときだったと思うんですね。建設が終わって30年で廃炉にするという話だったんですけれど、なんて言うんでしょう。できてしまったので、共栄共存でやっていくしかないと思っていました。ただシュラウド※を交換したことによって、あと30年伸びるということに対しては、いろんな説明会もありましたけれど、それは大丈夫なのかなというふうには思っていましたね。漠然とした不安はありました

※シュラウド:

核燃料や制御棒等を収納する原子炉圧力容器内部の部品の名称。1990年代にシュラウドの腐食割れが顕著になり、1997年にイチエフの3号機で世界初のシュラウド交換工事が実施された。


東日本大震災があって、特に思うんですけれど、日本は、東海のほうもそうですけれど、今首都直下型地震もあるかもしれないという中で、どこで地震が起きてもおかしくないんですよね。そうしたときに、ある意味、東日本大震災で福島第一原発は放射能は漏れてしまって爆発はあったけれど、最小限の被害、と言っていいのかどうかわからないけれど、もっと大きな原子力発電所の事故が起きてしまえば、相当大変なことだと思うんですよね


やっぱり廃炉の方法、それが早く進んでくれたらいいなと思います。原子力発電所もまだきちんとした廃炉の仕方もわからないし、高濃度の放射能漏れのとろは機械を使ってやっていくということですが、もう事故は起きて欲しくないですし、なんて言いますか、例えが良くないかもしれないけれど、イチエフだけでこういう事故は終わって欲しいなと思います



<お話をしてくださる栃本さん>




● 栃本さんの「ささやかな夢」


自分では、そんなに大それたことはできないですけれど、自分の住むまわりから、少しずつきれいにしていきたいなと思います。大熊町の人が住んでいるところは除染されているんですけれど、山林除染はまだだし、これからやるかどうかもわからない状態なんです。それに、(大熊町は長い間)人が住めなくて荒れてしまっていました。イノシシ等の動物も増えています。まずは自分が住むところを、少しずつ花を植えたりとか、放射能をどうにかするために実験的なこともしながら、家のまわりを少しずつきれいにしていきたいというのがあります。ささやかな夢ですね

 

◆編集後記

「イチエフだけでこういう事故は終わって欲しい」。栃本さんのこの言葉が何より印象に残っています。東日本大震災における、地震や津波、そして原発事故に伴う避難生活のいずれもが、これまでにないほど大きな被害を出したのは確かです。しかし自然災害の多いこの国で、3.11のような大規模な災害はこれからもきっと起こり続けます。だからこそ私たちは、東日本大震災と、それにより被害を受けた大熊町をはじめとする被災自治体、そして被災者の方々の経験を、過去のものあるいは他人のものとしてではなく、これから自分の身に降りかかる大災害に備えるための教訓として受け止めるべきだと思います。「イチエフだけでこういう事故」を終わらせるために、もう二度と3.11のような大きな被害を出さないために、自分の手でできることを見つめ直したい。栃本さんのお話をお聞きして、改めてそう思いました。

【聞き手:阿部翔太郎】

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