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​「よそ者」の正体に迫る

私たち学生団体S.A.L.は、これまで長期休暇を利用して国内外でのスタディツアーを実施してきました。今年に入ってからそのような活動はできなくなってしまいましたが、自分たちが普段暮らしている生活圏から移動し、現地で暮らしをもつ人や活動する人に話を聞いています。人は気づかぬうちに周囲の環境によって規定されてしまう部分が多いため、その環境の中でいきなり新しい気づきを得ることはなかなか難しい。世界に目を向けるということは、それを通して自分がもともといたところを省みることにもつながります。

そして、それはすなわち、「よそ者」として社会問題に関わる、ということでもあると感じます。

では、よそ者とは一体どのような存在なのでしょうか。

よそ者について最初に研究を始めたのは、ドイツのジンメルという社会学者でした。産業革命を発端に活発化した人の移動に伴って社会のメンバーが常に入れ替わる状態が生まれた中で、彼はよそ者の持つ「近さと遠さ」という特性に目をつけます。これは、よそ者がホスト社会に関わるとき、そのコミュニティ外にあったものを近づける役割を果たすと同時に、コミュニティ内の人や物とは一定の距離を保ちながら関わるという性質です。このような「客観性」を持つとされるよそ者は、社会の中で一定範囲のメンバーシップを持っていると指摘されました。例えば、「『よそ者・若者・馬鹿者』は地域復興に役立つ」というように、新たな視点を持つものとして重宝される場合もあります。

ですがこれに対して、より遠くに位置付けられてしまうよそ者がいることが、アメリカのパークという社会学者によって指摘されます。人種や文化の違いによって、ホスト社会から排除の対象となってしまうよそ者の存在を明らかにしたのです。さらに、シュッツという社会学者は、よそ者が客観性を持つゆえに、コミュニティの中での「あたりまえ」のあやうさに気付ける一方で、ホスト社会はよそ者が「あたりまえ」を拒絶しているように見えてしまうため、排除につながってしまうことを示しました。

 

新型コロナウイルス感染症が猛威を振るう前、私たちにとって移動は当然の自由でした。好きな時に好きな場所に行ける、その自由が今は制限されてしまっています。そのとき私たちが目を向けなければならないのは、以前からそもそも移動の自由を奪われてしまっていた人がいるということです。グローバリゼーションの中で移動する力を奪われた人は、居場所を追われ、行き着く先でも排除の対象となってしまいやすい。そうした人たちにとって社会とはどのようなものなのか、今一度考える必要があります。

少し話は飛びますが、半年ほど前、引越しをしました。

大学生になって、「転校を機に友達を一から作らないと…」というような不安はありませんでしたが、一軒家からマンションに引っ越したことで生活に多少の変化はありました。特に、郊外の戸建てでは気にする必要のなかった生活音も、マンション生活の中では周囲の迷惑にならないように気を配らなければなりません。半年前は緊急事態宣言下だったこともあり、オンライン飲み会をする機会もありましたが、深夜は大きな音を出してはいけないというマンションのルールもあるので、気を使う部分が多くなりました。

住む場所が変わるということは、もといた場所で「あたりまえ」だったことが通用しなくなる、言い方を変えると、別の「あたりまえ」のなかで生活しなければならないということでもあります。ちょっとした引越しでは、その差はあまり大きくありません。ですが、国が違ったら?宗教が違ったら?その差はとても大きなものになります。

それと同時に引っ越して思うことは、隣近所の顔が見えないということです。都市化に伴い他者への無関心が加速していることがよく指摘されます。これまで、「空間的な移動を伴う存在」としてのよそ者に目を向けてきましたが、英語で同じような意味を持つstrangerという単語には「見知らぬ人・他人」というような意味も含まれます。このような「見知らぬもの」に対する無関心はどこから生まれ、何をもたらすのでしょうか。