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人と社会と「ディスタンス」

道で人とすれ違うと、必ず互いに挨拶を交わす。

これは、私が初めてランペドゥーザ島を訪れたときに感じたことであり、島に暮らすパオラという女性にインタビューをしたときに、この島の好きなところとして挙げられたことでもあります。ドキュメンタリーに登場する女性は、「この島は一つの大きな家族のようだ」と語りました。人口6000人に満たないこの小さな島では、人と人とのつながりが強いと言えるでしょう。(同時に閉鎖的であるということでもありますが…)

ですが、私たちが暮らす社会はどうでしょうか。お隣さんの顔も知らない中で、街中で人にいきなり挨拶をするなんてもっての外。怪訝な目で見られてしまいかねません。人とのつながり、すなわち社会関係資本・ソーシャルキャピタルは、社会生活を営む上で重要です。しかし、このつながりが希薄化しているのはなぜなのでしょうか。

それを考えるにあたり、まず私たちがどのように他者と関わるかに触れます。例えば、近しい人との関係性において、私たちはその人の背景を知った上で、どこどこの〇〇さんとして、1人の個別的な人として捉えます。しかし、コンビニに行くと、レジに立っているのは〇〇さんではなく、「コンビニ店員」にすぎません。

私たちが暮らす社会は、都市化した社会であると言われます。都市化するということは、人がたくさん集まってくるということです。人の背景を想像し、密に関わるということは体力を使うことですから、私たちが深く関わることのできる人数は限られています。その中で、人間関係のキャパオーバーにならないために、ある程度の距離感以上の人に対しては、その役割によって認識することで、社会生活を円滑に送ろうとするのです。この距離は、社会的距離と呼ばれます。

あれっ、なんだかよく聞く言葉が出てきました。

このコロナ禍において、私たちは「ソーシャルディスタンス」を保持することを要請されています。ですが、現在も第三波に突入したとも言われるように、感染者が増え続けている一方で、人々の間では徐々に「慣れ」が生まれてきてしまっているように思います。それは、「自粛疲れ」かもしれないし、その「疲れ」や「ストレス」に対処する上では、ある程度目を瞑る必要があるのかもしれません。ウイルスとの向き合い方は、都市化した社会での他者との向き合い方に少し似ています。もちろん、ウイルスと人は全くの別物ですが。

それでも、人との距離が遠くなった今の社会は、そう簡単には元に戻りそうもありません。人間関係の中の社会的距離は概念的なものであるのに対して、ソーシャルディスタンスで求められるのは物理的な距離ですから、意味は異なります。しかし、物理的な距離が広がると、精神的な距離も遠ざかるのも事実です。ソーシャルディスタンスを取ることで、都市の無関心がより加速していく未来は容易に想像できます。

都市の無関心は、社会生活を円滑に送るために、見知らぬ人(ストレンジャー)の背景に目を瞑ることから来るものでした。しかし、どの人にも個別的な人生は必ずあります。その全てを理解しきることはできませんが、それは無視して良いということでは到底ありません。

空間的な移動を伴うよそ者、社会の中の見知らぬ他者。その両方を含むストレンジャーという概念を見てきました。コロナ禍で「健康を守るため」という至上命題において、社会から切り捨てられてしまっていることがたくさんあります。「何かのために」を志向すると、他の価値に目が向きにくくなり、自分たちの価値を押し付けることで、分断が生まれます。一度立ち止まって、他者との向き合い方について考えを巡らすのもいいかもしれません。