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【あじさいプロジェクト】大熊町聞き書き活動13 石田キミ子さん

2020年1月18日、福島県田村市にお住まいの石田キミ子さんにお話を伺いました。石田さんは震災前、家族七人で暮らしており、旦那様とともに椎茸の栽培をされていました。震災後は千葉県や長野県に避難された後、福島県内での生活を再開されました。石田さんの震災前の暮らしや大熊町に対する思いについて、お話ししていただきました。



● 石田さんの震災前の暮らし


30年程前は椎茸を1万本ぐらいやっている椎茸農家だったんです。他にも豆や米も作っていたから、その三つを合わせて、あと塩さえ買えば生活にゆとりができるかなと思って。そして、これらを組み合わせたら美味しくなるんじゃないかなという発想の転換で(しいたけ味噌づくりを)始めたんです。椎茸の分量や塩の加減など、約5年の試行錯誤を経て、販売するに至りました。


そして、"しいたけ味噌"として町の特産品にしていただいたんです。町や農協の人にも手伝ってもらって、東京には年間5~6回販売に行きました。そのおかげで本当に沢山の人に注文していただいていて、関東地方からが一番多かったですね。地元でも宣伝したりして、1年に5トンの味噌を作って販売していました。これだけでは物足りなくなって、調理師の免許、味噌の製造の許可証などを取得して、ふきのとう味噌、ゆず味噌、青唐辛子味噌などさまざまなものを販売していました。


<お話をしてくださる石田さん (2020年1月)>


● 各地を転々とした避難生活


震災が起きた時は、大川原にバスが来たんです。すぐに帰れると思っていたから、車で向かいましたが、バスに乗ることになって、手提げ一つで乗り込みました。そして、なんとか(田村市)船引(ふねひき)の石森小学校の体育館に行って、しばらくして妹が三春にいたので電話したんだけど、通じないんだよね。でも次の次の日に見つけてもらって、三春の妹の家に行ったら、妹の家には親戚のみんなが23人ぐらいいて。重なるようにして寝て、そこで旦那と1週間過ごしました。


次に娘が千葉にいるのでそこに移動しました。そこは、孫の大学受験生がいて。なんだか気を使うからと、長野の小諸にある娘の旦那の家に行こうと言われて、自分の次男坊とかとみんなで行ったの。でも孫は学校だから会津に戻って、私も1年7ヶ月小諸にいたあとは会津に4年ぐらいいて、そして今は船引にいます。6回目でやっと落ち着きました。



● オリジナルの”しいたけ味噌”


原発事故があって、いろんなものを片付けるという時に、次の(しいたけ味噌の)製造のために空けておいた箱なども全部捨てたの。もう何も食べるものはダメだと言われて。あの捨てる時の悲しさ。沢山の商品を作ってきて、その分多くの人が携わってくれたりしていて、それが本当に生き甲斐でした。


他に町内や双葉でしいたけ味噌をやっている人はいなくて、いわば私のオリジナルなんです。だから、残していきたいという気持ちがある。姪っ子がいて、今群馬の食の大学に行っていて、「おばちゃん、もし卒業したら、しいたけ味噌教えてもらおうかな」と言っています。他の町からも教えてと頼まれたり、人づてに言われたりしました。でも、今まで大熊町でやっていたものを別の町に教えるというのも嫌だし、私たちも試行錯誤してやったのに、と思って。ただ姪っ子とかがやりたいと言うなら、そういう人には教えてあげたいなと思って、楽しみにしています。



● おうちが国の登録有形文化財に


椎茸は家の上のほうにある杉山に木を立てて作っていたんですけれど、ちょうど収穫できる年が震災でした。東電の人も見に来たけれど、しばらく放っておかれていたから、「椎茸ってこんなふうになるの?」とびっくりしていました。東電の方が補償するのに何本あるか(椎茸の)木を数えるので、行こうとしたら、(線量計が)ビービー鳴っているから何かと思いました。椎茸はすごく放射能を吸うんですって。


一方で、母屋と土蔵(どぞう)と門と籾蔵(もみぐら)*は釘を1本も使っていない珍しい建物で、(国の登録)有形文化財に指定されたので町に寄贈しました。町でどうでもいいから使ってくださいと。壊されるよりはいいと思って。


文化財として指定されたというのは、それは今後も残っていくということかなと。国の人や文化財に関わっている人が来て、「これは残しておいてください」と言われたから、「ああ、良かった」と思って。私も残してもらって良かったし、うちが18代まであそこで生まれていて、今高校生の子が18代目なので、そういう意味でも土地は売りたくない。町は「売ってもらいたい」と言うけれど、土地だけは自分のものであってほしい。


*籾蔵:主に江戸時代に利用されていた、凶作に備えて米を籾のままで貯蔵するための蔵。

<大熊町の特産品”しいたけ味噌”のチラシ (2020年1月)>



● 地元福島への思い


福島にはやっぱり戻ってきたかった。(避難先の)長野にいてもほとんど知っている人はいないでしょう。だけどみんなが救う会みたいなものを立ち上げてくれて、衣類とか、いろいろ持ってきてくれて、弁当も朝昼晩と。でも気の毒だから、「いいです、自分でもできます」と言って断って。


家族11人で長野にいて思ったのは、今まで本当にあんなに忙しくてバタバタ動いていてしんどくても、何もしないのはもっとひどい。朝昼晩と弁当が来るから何もすることがない。だから、お父さん(旦那様のこと)もうつ病みたいになって。今までいろいろ町の仕事などをやっていたのに、何もなくなったから。そんな生活をしてきました。結局長野にいた(避難していた家族)みんなは、バラバラではあるけれど、長男・次男家族は福島に戻ってこれました。

 

♦編集後記

石田さんのお話を通して、震災前の暮らしがいかに充実したものであったか、そしてその生活から多くのつながりが生まれていたことがわかりました。震災によってその生活が一変し、今まで大切にしていたものが奪われた時の感情は私たちの想像を超えるものであり、だからこそこの思いを伝えていきたいと思いました。

【編集:松本彩花】




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