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執筆者の写真あじさいプロジェクト

【あじさいプロジェクト】大熊町聞き書き活動02 吉岡三重子さん

更新日:2022年4月3日

2020年11月29日、現在は栃木県佐野市にお住まいの吉岡三重子さんに聞き書き活動をさせていただきました。吉岡さんには、震災前の暮らしから震災当時の話、そして現在の思いなどを語っていただきました。

※聞き書きについての説明はこちら




●「生まれた時からずっと大熊に」 吉岡さんの震災までの日々



私は生まれた時からずっと大熊にいました。うちは米作りの農家だったんです。お米と自分のうちで食べるくらいの野菜を作って生活していました。60歳を過ぎたころからは、街のスポーツクラブのウオーキングとかトレッキングとかにも参加するようになったので、お友達がたくさんできて、旅行をしたり一緒にご飯を食べたり、楽しく暮らしていました。


だいそれたことではないんですが、パッチワーク、帽子作りっていうのを(地域の)みんなとやってんですよ。何人か集まったとき、私は先生に習いに行っていたものですから、そういうのを教えてってことで集会場に、2週間に1回集まって近所の人とやっていました。震災の前の晩も集まってやっていたかな。


今日も一つ持ってきてて。これ。(震災前に住んでいた)うちは雨漏りをしていたから、これは会津で作ったものなんですが。



<吉岡さんが作ったパッチワークの作品>(写真=提供)


震災の後に避難したでしょ。避難先では当然知り合いもいない。でもパッチワークやっていたから、自分で布を買ってね、家で縫ったりなんかできたから。やっててよかったよねぇ、教えてもらってよかったって。会津でも避難しながらみんなで集まってやっていたから、それはよかったかなと思っています。


大熊にいたときも先生に習っていて、会津に避難したときも会津の先生に習っていて、今は栃木の佐野にいるのですが、ここでも先生に習っています。栃木では習うってよりも友達というのか。おしゃべりがしたくて、仲間とね。私は一人でいられない人間なんです。誰かとおしゃべりしていないと。それでパッチワークを習いにいっているんです。いろいろな人、同じ年代の人と話せるから楽しいです。



●「あの日のことはなかなか忘れられない」震災の日の記憶


次の日にウオーキングの仲間と沖縄に行く予定だったんです。10年も経つのですが、やっぱりあの日のことはなかなか忘れられない。思い出したくは、ないんですが。


あの日は、まず午前中にウーキングをして、お昼ごはんを食べて、隣のおばちゃんにいただいたパンジーの苗を植えていました。幼稚園から帰ってきていた孫が、家の中でテレビを見ていて、私はパンジーを植え終わって長靴を脱いで家に入ろうかと思ったときに揺れて。うちに入ろうとしたら、孫がテレビをつけたまま靴下のまま出てきまして。私はそのときは覚えていなかったのですが、避難して何日か経ってから、「ばあちゃん、僕のことをおぶって外に出てくれたんだよ」って孫に言われて、そういえば私、孫が靴を履いていなかったからおぶって…。


電柱が倒れたり、瓦が落ちてきたら大変だから、どこに避難しようかなと思って、畑に行こうかと畑まで孫をおぶっていったのですが、そのうちだんだん揺れが大きくなって立っていられなくてしゃがんだら、本当に瓦が落ちてきたりして。


しばらくしたら、うちの息子が向こうから走ってきたんですよ。今までで一番速く走ったんじゃないって来たときに言ったら、足がもつれて走れなかったと言っていました。道路の途中が陥没していたから、途中で車を置いて走ってきたってことでした。子ども達を学校に迎えに行く間、貴重品とか用意しておいてって言われて、そういうのを出したり、遺影を取って車につけたり、貯金通帳とかを出したりしていたら、津波が来るかもしれないから体育館に避難をしてって放送がありました。発電所のことなんて頭にないものですから、毛布だけ持って、明日来て片付けるかって感じで体育館に行きました。私と旦那と孫2人は体育館の中、息子夫婦と一番上の孫は車の中、駐車場のね。それで一晩過ごして。体育館も余震がひどくてね、怖くてね。



●「西に向かって避難してください」先行きの見えない避難生活が始まる


発電所のことは何も私はわからなかったんですが、朝方、体育館の玄関に防護服を着た人から、発電所の電源がどうのこうのだから「西に向かって避難してください」って言われたんです。西のどこっていうんじゃなくて、ただ西に向かってって。バスがこちらに向かっていますって。年寄り、子どもはバスに乗せて、あとは車でって。家族バラバラでどこに行くかわからないのは嫌だから、息子の車に、大きな車だったから家族7人で乗って…。なにしろ道路が走れないからあちこち行って、最初は山形に行ったのかな。息子の同級生に一緒に山形に行くかって言われて、山形に一晩泊まったかな。雪道でね、暗くてね、心細かったです。



<お話をしてくださる吉岡さん>


思い出すのは、良い人というのか。(車で避難している途中に)セブンイレブンがあって、カップスープか何かを買ったんですよ。駐車場を借りて、お湯を入れてもらって家族で食べようかなと思っていたら、店員さんがおにぎりをにぎってきてくれたんですよ。これは私のお昼ごはんか夕ごはんなんですけど、食べてくださいって。その話をするとね、今でも涙が出てくるの。そんなことがありました。


山形に結局1ヶ月以内かな。それで大熊の学校を会津若松市で始めるということで会津に行ってホテルにお世話になりました。佐野に息子が大熊で勤めていたときの会社の物流センターがあったので、そこに転勤という形で息子たちが(引っ越すことになって)…。あちこち土地を探したりして今のうちを造って一緒に暮らすようになりました。


会津に避難しているときには、生まれて初めてお米を買いました。あのときのことは今でも覚えています。うちは農家だから、お米を買ったことなんてなかったんです。最初はお米を買うときにすごいことをするって感じで。孫がお米の作文を書いたときには「うちには売るほどお米があるから、残ったお米は食べなくていいとおじいちゃんに言われたのに、(避難中は)そのお米が本当にありがたい」って書いていました。



●「大熊で受け入れなかったら前に進まない」中間貯蔵をめぐる葛藤

私の家は中間貯蔵の中にあったんです。まだ自宅があったときは何回か行きました。でもうちを壊すところは見たくなかったし、うちがなくなったところも全然見ていないです。大熊にも全然行っていない。何年行っていないだろう。3年は行っていないかな。虚しいですもの。

※中間貯蔵施設とは、除染により発生した土などを最終処分するまでの間、暫定的に貯蔵するための施設で、原発のある大熊町と双葉町に設けられている


中間貯蔵になったのは何年くらいかかったんだろう。話は早く始まったらしいのですが。テレビ、新聞の記事で、あそこが中間貯蔵施設になると、そういう話は聞いていました。実際に地権者の私達には具体的な話、そこをそうしたいからって話は何もなくて。上のほうで決めて、自分達が何かを言うってことは全然なかったですね。地権者会という説明会は形だけって感じだったから金額も決まったものをこちらは受け入れざるを得ない。


あそこに造らないと、他に造るところはないよね。どこかで誰かが犠牲にならないと前に進まない。やっぱり発電所の近くの大熊で受け入れなかったら前に進まないからってことで、みんなそういう気持ちで受け入れたのだと思います。他に誰も受け入れる人はいないもの。


原発までうちで3kmくらい。事故が起こるまでは安心安全クリーンなエネルギーということで、すぐ目の前に原発があっても何の不安も持っていなかったんだよね。あんなに揺れても、「発電所は大丈夫か」なんて全然考えてなかった。



●「やっぱり大熊の人間なんですよ」今でも大熊への思いは強く


もう一度大熊で暮らしたいという気持ちは、ないですね。一人で戻ってもしょうがないし。大川原に土地を買ってうちを造るという考えは…。前の家に戻れるわけじゃないですから。今のところのほうがいいですね。大熊に戻ったっていう人も、私の知り合い、知っている人ではいない。


大熊の人たちとは、時々、年に何回か今までは花見をしてたり、どこかの温泉で集まるっていうのがあって。今年はコロナでできないのですが。大熊の人だって思うだけで、なんて言うんだろう。懐かしく感じます。大熊弁がね。今は孫の運動会に行って大きい声を出すと「母ちゃん、小さい声で」って言われる。「母ちゃん、訛っているんだから」って。直らないですね、大熊訛りはね。


大熊の風景が蘇ってくることも、当然、ありますよ。それはね。紅葉の時期になれば、坂下ダムのあたりのあのモミジは紅葉したかなとかね。あと春になって庭に植わった木に新芽が出るでしょ。そうすると私、今の家に住み始めた最初の頃はちょっとうつ気味でね、「新芽が出てきたけど、(震災前に住んでいた家の)後ろの山の木も芽が出たかな」とか思って涙が出てきたんですよね。





今こちら(現在お住まいの栃木県佐野市)に来ても、こちらの人間ではなくて、やっぱり大熊の人間なんですよ私たちは。住所も住民票も大熊にあるし。栃木に家を建てて固定資産税は払っているけど、あとの税金は大熊町に払っているの。お医者さんにかかったとき、現住所と避難する前の住所の両方を書いたり。初めて行った病院だと、どう対応したらいいかわからないから、大熊町の役場に問い合わせをするからちょっとお待ちくださいと言われるときもあるし。


「どうしてこっちに住所を持ってこないの」って何もわからない人は言うんですよ。でもやっぱり向こうに置きたいものね。世間に忘れられても、私達はいつまでたっても避難民なんですよね。



●「失って初めてありがたみがわかる」見つめ直した自分と大熊のこと


私は生まれたときから、大熊から出たことがなかったから、知らない土地での隣近所と付き合いも何もしたことがなかったんですよ。でも避難生活の中でそれをしないといけなくて、この年になって初めてその苦労がわかったんですよ。それで、何十年も前に大熊に移住してきた先祖のことを思ったんですよ。私の祖父が先祖についていろいろ書いてくれたものがあって、避難するときそれは持ってきてたんです。


その記録を読んでみると、先祖は丹後国から来たらしいんですよ。天橋立の近く。1856年に丹後国から大熊に4人で来たそうです。先祖が苦労して大熊の土地を開墾したみたいなのね。やせた土地を開墾しても何も作れないのにって言われても、先祖は苦労をして耕して田んぼとか畑を作ったみたいなのね。

※丹後国はかつての日本の行政区分の一つで、現在の京都府北部にあたる

その先祖が生まれ育った土地に行ってみたいなと思って。昔の住所が書かれてあったので、それを頼りに去年の5月に行ってきたんです。子孫に会えるかわからないけど、その住所の近くにホテルをとって行ったんです。ひとりで乗り換えなんかしたことがないのにね、東京から新幹線に乗って京都に行って、何々線に乗ってホテルに行ったんです。


「明日から観光ですか」とホテルの人に言われて、「こういうわけなんです。うちは吉岡だけど向こうはモリオカって名乗っているようです。モリオカさんって電話帳に出ていますか」と聞いたら1軒あるって言うんですよ。部屋に戻って教えてもらった番号に電話をしたら、女の人が出て「こういうわけで栃木から来たんです。うちの先祖がどうのこうの」と言っても、向こうからしたら何を言っているのだろうって感じですよね。「近くに泊まっているんです」と言うと、「明日、私が行きますか」と言われたので、「私がお邪魔します」ということで翌日行ったら、ホテルから歩いて5分もかからないところが自宅だった。


それでうちに上げてくれたんです。直系の人は去年亡くなったらしく、先祖のことを聞いてもわからないなと。でも実際に家に行けただけでもよかったかな。仏壇にお参りをさせてもらったし、お墓にもお参りをさせてもらった。田舎で田んぼがあってね。その景色を見ると、初めて行ったところなのにふるさとに行ったような不思議な感覚でした。


先祖が苦労して開拓してきた土地が、私達の代でなくなるというのは本当に先祖に申し訳ないなと思いますよね。でもどうしようもないからね。自分が借金をしてなくすわけではない。国民のために協力をするのだからって自分には言い聞かせているのですが。


大熊っていいところだったんだなぁと、離れてみてね。川があふれる事もないし、山が崩れることもないしね。失って初めてありがたみがわかるんですよ。ふるさとなんてね。何もいいことはないと思っていたけど、失ってみて初めてわかるものですね。

 

◆ 編集後記

震災当日の様子や、大熊に住んでいた頃の思い出の景色について、具体的な地名などの固有名詞を交えながら、細かいことまでお話ししてくださったことが印象的でした。それだけ、吉岡さんにとって震災や大熊の記憶が重要なものなのだろうと思いました。震災だけでなく、”当たり前”だと思っている日常と環境のありがたみを、改めて捉え直すことができた貴重な経験だったと思います。

【聞き手:阿部翔太郎】




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