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【あじさいプロジェクト】大熊町聞き書き活動03 松永秀篤さん・妙子さん

更新日:11月15日

2020年12月6日に元きゅうり農家の松永秀篤さん・妙子さんご夫妻からお話を伺いました。松永さんご夫妻は大熊町に戻られ、今は大熊町できゅうりやトマトの栽培をされていらっしゃいます。

※聞き書きについての説明はこちら



● 松永さんが語る農業の魅力


震災前から農業をやられていた松永さんご夫妻。二人に農業の魅力について伺いました。


秀篤さん

俺は時間が自由になるということ。


妙子さん

私はそもそもやっていないから、結婚する前に本当に自分家は兼業農家だったから、そんなに手伝いをするわけでもなく、ちょっとしか田んぼも畑もないから、嫁いで来て、やって、自分が主にというか、自分が始めたときに種からまいて段々なっていくじゃないですか、花が咲いてとか、いろいろあって、そのときは、「あ、すごいな」って思って、それが良かったんですけれど、自分にはできないことがいっぱいあったものですから。田んぼにしても、畑にしても、だから1つ1つができない。クワの使い方もできないし、だからできないことがいっぱいあったんですよね。


だけど、段々それが少しずつできてくることによって、それなりの喜びもありましたし、まず1つのものがものになる。自分が手掛けてそれがやっぱりうれしかったですし、ここに帰ってきてスモール農業を始めて、やっぱりキュウリも以前やっていたみたいに自分で種をまいて苗を育てて、そしてキュウリになったときに、何かすごくうれしかったです。今も畑に少しずついろいろなものが植わっていて、それが食べられる時期になってくると、やっぱり自分で作っているものは最高だなって思って食べていますけれどね。


だから、なんだろう。魅力って…。私は自分の父親に結婚するときに、「専業農家だから、農家をやっていく自信がないなら今のうちに付き合いをやめろ」と言われたんです。「自信はないけれど、やっていこうという気持ちはある」って言ったんです。そして父が「じゃあ、自分で決めたんだからな」って言われたんですね。だから、野菜づくりなど全然わからないけれど、やってみようという気持ちだけはありましたね。やってみたら、結構楽しかった。そんな感じでしたね。私の最初の農業は。




● 幼少期の暮らし


秀篤さん

震災前は今の少子化と違って同級生が、うちの地区だけでも10人近くいたもので、結構みんなで遊んで歩いたといういい思い出だけがあります。熊川海水浴場のすぐそばですから、同級生、友達と、夏になれば、そこで泳いで、近所の畑からジャガイモやスイカをいただいて、お昼頃になれば、スイカを食べたり、ジャガイモを塩水で茹でて、そんなことをして遊んだ記憶がありますね。そこには川もあるんだけれど、鮭が登ってくるので、今なら泥棒だけれど、小さい頃は許される感じで、鮭のほうもいただいて。そんなやんちゃな少年時代でした。あの頃って、忍者ブームで秘密基地とかを作って遊んでいました。


幼少期は13人家族。両親とその上にじいちゃん、ばあちゃんと、その上のばあさんも1人いて。うちら兄弟は4人で、おばさんが3人かな、おじさんまで入れたら4人か。(自分は)長男です。だから、うちは農家だったから、農業を継がなきゃならないということで、結構跡取りって大事にしてもらえる。おばさんとか、下の兄弟とは、ちょっと待遇が違いましたね。昔は一人ひとりお膳だったのね。うちの弟らは一人ひとりではなくて、テーブルというか、大きいやつでみんなで食べなと。おじさん、おばさんもそうなんだけれど、僕だけ長男なのでじいちゃんがいて、お父さんがいて、その隣にちゃんと1つ席を設けてもらって、小さい頃から1人分のお膳がついていました。


うちは(農業を)結構大きくやっていたので、人海戦術でいかないと間に合わないというか。昔は「結」というのがあって、この地区だけでお互いに手伝ったりするんだけれど、それでもやっぱり反別というか、面積でやるので、うちは大きいので。他の人は小さいから半日ぐらいで終わるけれど、うちは3日くらいかかるので、2日半うちは余計な分を金銭で出したりしていたから。子供が使えるなら小さいうちから使うみたいな感じで働かされました。



●つないでいきたい伝統、熊川稚児鹿舞(くまがわちごししまい)※のお話

※鹿舞と書いて「ししまい」と読みます。


秀篤さん

熊川稚児鹿舞はうちらが小さい頃で250年くらい前からと言っていたから、俺が携わるようになって、もう50年になるから300年ぐらいにはなるんだよね。大体1代が5~6年くらい続いて、また次の代に交代するというので、ずっと来ていたんだけれど。うちらは同級生が5~6人いるぐらいだから、子供がいっぱいいて選別されるんだよね。この子はいいとか、この子はダメとか。それに必ず長男でないとダメなの。なんでかというと、やっぱり次男、三男というと、家を出ていくから続けられない。継承できない。長男だったら、家を守らないといけないので残るから、ずっと長男だけで。うちらの世代もそうだったけれど、5~6年続けるから、その間に入った子は全然踊れないんだよね。自分も残念ながら1年上の先輩が踊ったので、踊れなかったのね。


不思議とみんな「嫌だ、嫌だ」と言いながらやっているんだけれど、リタイアする子は誰もいなかったから、あの頃は子供の憧れなんだよね。お盆に帰ってきて、それを見るというのが、うちらの外に出ていった人らの楽しみだったから、お正月はお正月で帰るけれど、お盆に帰ってきて、今言った稚児鹿舞、それを見るために帰って来る人が多かったから。だから踊っている人らも、優越感に浸るというか、そういうのを小さい頃から見ているから、みんな憧れていたね。「踊りたい、踊りたい」って。


写真)大熊稚児鹿舞のお面 (写真=提供)


秀篤さん

たまたま俺がやるようになったのは、高校時代にうちの担任の先生が、すごく民謡が好きな先生で、なんか知らないうちに無理やり民俗芸能クラブみたいなのを作ってしまって、そこでやれと言われて、踊りなんかもやっていたけれど、先輩のシゴキが大変で、「こんなのやってられないな」とサボっていたら、先生が何かやらないといけないからということで、「一番楽なものはなんですか?」と言ったら、「笛が一番楽だから」と言われて、笛をやるようになって、それがきっかけで、鹿(しし)のお囃子の中で笛を吹く人が、もう高年齢でなかなか跡継ぎがいなくて、実際に俺の先輩というか、先生は、うちの親父らと同級くらいだから、すごく上だったのね。その間は全然吹ける人がいなくて、だったら俺がやってみるかということで始まったのがきっかけ。


それがもう50年ぐらいやっているから、うちが入った年にやっぱり「シシコ」というか、踊り子を探すんだけれど、どうしても長男、長男と来たけれど、長男がいなくなってしまって、該当する人がいなくて、それでしょうがないからということで、次男坊でも三男坊でもいい。熊川出身ならいいですということで、それでずっとつないで来たんだけれど、それもこの震災で、みんな家族というか、地区の人間がバラバラになってしまって、県内外に散ってしまって、そこから今度子供を見つけるのは大変だったんだけれど、たまたま兄弟でやってくれるというのが見つかって、やっぱり小さい頃から熊川で見ていて、やっぱり憧れだって。1組は仙台のほうで生活をしていて、仙台からお盆に見に来ていたんですって。


「あんなのできたらいいよな、でもここにいないからダメなんだよな」ということで、半ば諦めていたけれど、震災の前の年だったか、仕事の関係で熊川で生活するようになって、熊川に帰ってきたというか、熊川に住んでいるから僕もできるかもしれないとかすかな希望があったんです。ただ震災になってしまって、途絶えてしまったから。保存会があって、「どうする?ここで切るわけにはいかないだろう、とりあえず人を集めて、やるだけやろう」と。つなげるだけつなごうということで、探して、兄弟2組でやってもいいよと。昔から憧れていた兄弟と、あともう1組の兄弟は親が踊りをやっていて、お父さんの踊りがかっこいいなということで、「僕らもできればな」ってやっぱり思っていた。それがたまたまいい方向にいったからできたけれど、うちとしては、見つかって教えているときはいいけれど、そのときには不安というか、この後どうしようとずっと不安なんですよね。


やっぱり、(鹿舞を踊ることができる人の制限を)段々やわく(柔らかく)緩和しているから、昔は長男でないとダメだというのも変えているし、次男、三男でも良しとして、女は絶対にダメだというのがあったけれど、今回に限り、女の子も入っている。そうやっていくと熊川にこだわらなくてもいいんじゃないか、大熊町の人間ならいいんじゃないかということで、元々大熊町の無形文化財だから、町の人間だったらいいんじゃないかなということで、どんどんもっと広げていかないと、本当に「あつら(あいつら)で終わらせた」と言われてしまうから、そこは臨機応変に考えてやらないとならないのかなという思いもあるんですけれどね。



● 大熊町に戻ってからの暮らし


秀篤さん

避難先で生活のパターンができているから、今更こっち(大熊町)に来るというのは、あまりないだろうけれど、自分なんかは、やっぱり大熊生まれで大熊育ちで、もう大熊に帰れるなら、大熊に帰るぞとずっと言っていたから、たまたま大川原におばさんがいて、その人が土地を譲ってやるよということがあったので、いの一番にこっちに来ているんだけれど。だから、かと言って、大川原が好きかと言ったら、やっぱり根本的には熊川が強いので、できれば向こうで生活したいけれど、それは無理だな。とりあえず実家の近くで、大熊町だったらいいという感じでいるんだけれど。


1人でも多く大熊で生活する人が増えてくれればなと。それは元々大熊町民でなくてもいいから、大熊で生活する人が増えてくれればなと思って、それでいろいろなイベントの仕掛けをしたいなと思っている。役場のほうでも、「いや、それは…」ってみんな自粛して自粛してって言っている。他の町でやっているんだから、大熊でできないことはないと言っているんだけれど、だから、役場でダメだと言われても、こっちでやるのは別に構わないのかなと思って、これから春夏秋冬、いろいろな花を植えたり、飾りにしたり、昔のままと言ったらおかしいかもしれないけれど、昔やった盆踊りやバーベキュー大会とか、段々復活していこうかなと思ってやっているんだけれど。いかにして、注目をしてもらえるかなというのが課題だな。


妙子さん

私もこっち(大熊町)に来て、みんなといろいろやりたいなと思ったらコロナじゃないですか。コロナになっちゃったから、今少しずつ10人単位とかなんかで、社協でいろいろ考えてくれて、やってくれる体操とか、そういうのに本当に行くんですけれど、やっぱりなかなか出て来ないんですよね。年齢が上になっているから、みんな出て来ないんですけれど、誰でも集まって来られる体操。集まれるように。


(2020年12月)もやるんですけれど、大川原にサンタさんとトナカイさんが来るかもというやつをやるんですよ。お茶会なんですけれど、今回で2回目なんですけれど、それにちょっと今携わらせてもらって、なるべく出て来て欲しいなと思って。引きこもっていてもしょうがないしと思うんですけれどね。だから、いろんなことに参加しようという気持ちが、ここにいて。そういう気持ちでやっていますけれどね。うちの中で言ったら、うちのお父さんは好きなことをいっぱいやっているから、もし時間があったら見に来て欲しいです。本当になんて言うのかな、好きなことをやりたいようにやっているのが一番お互いにとっていいのかなって思います。2人だけで生活していますからね。子供がそばにいるわけでもないし、時間は自由になることがいっぱいあるし、だから、そこでお互いにいろんなことをやって、だって引きこもっていてもしょうがないですものね。そんなふうにして2人で生活していますけれどね。自給自足の野菜だけでやっていて。結構楽しんでいます。


↑お話をしてくださる松永さんご夫妻 (写真=提供)

◆ 編集後記

松永さんご夫妻のお話を伺って大熊町の伝統芸能である熊川稚児鹿舞の存在を知ることができました。また、大熊町に戻られている方しかわからない葛藤なども感じられました。私たちはこのような大熊町の伝統芸能や今の大熊町の現状をたくさんの方に伝えていきたいと考えています。

【聞き手:岩田千怜】


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