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【あじさいプロジェクト】大熊町聞き書き活動04 松本 光清さん・緑さん

2020年11月29日(日)、福島県大熊町の出身で、現在は栃木県鹿沼市にいらっしゃる松本 光清さん、緑さんご夫妻に、オンラインでの聞き書き活動にご協力いただきました。震災前は、熊町幼稚園の近くの畑で梨を中心とした果物農家をされていた松本さん。園児用の梨の木を用意して見学や収穫体験などの受け入れを行っていたそうです。梨園の話や震災当時の話、そして現在の思いを語っていただきました。


※聞き書きについての説明はこちら


●園児たちの思い出に残るような「梨狩り」を


[光清さん]

(幼稚園の梨狩りを受け入れるようになったのは)昭和50年頃からかな。長女の下に2つ違いで長男がいて、年子で次男と、あと10才ぐらい離れて鹿沼で世話になった四男と子供が4人います。その長男が幼稚園時代だったと思うけれど、たまたま幼稚園の会長をやっていたので、先生方から梨狩りを経験させてもらえないかという提案がありました。


最初のうちは好きな木を選んで梨狩りだけをされていたんですが、2~3年過ぎた頃から、自分たちで梨の木を春先に選んで、剪定の様子から、花の咲いた状況、ミツバチを飛ばす環境、そういうのからずっと最低でも1ヶ月に1回くらいは梨の木の収穫までの間を学校の食育教育として組み込んで、散歩がてら見に来るようになりました。畑に小さい足跡があるのを見ると、自分の孫のような感じがしてかわいかったですね。


梨狩りをする園児の様子を見せてくれた松本 光清さん、緑さんご夫妻。光清さんは「(背が届きそうな)子供がジャンプして枝をポキっとやってしまったこともある」とほほえましそうに打ち明けた。(写真=提供)


5反ぐらいの園児向けの梨園の中に生えている中から木を選ばせて、自分たちのクラス名が、たんぽぽならたんぽぽと(梨の木に)名札をつけて、1年間観察させて最後の収穫まで。そうすると、ものを大事にしてくれる気持ちが生まれるみたいですね。それを目的に、震災の前の年までやっていました。

※1反は約10a。1aは10m×10m。


収穫のときには、梨を1人2個ずつ渡したんです。1個だけ渡すと、家に帰った後、「自分がもらってきた、取ってきた梨だ」と丸々1個食べちゃうらしいんです。もう1個は家族が食べるために、1人2個ずつ渡すようにしていました。梨狩りの当日に休んだ子にも、先生に持っていってもらって、後日渡してもらうような方法を取っていました。



●梨だけではない!多種多様な果樹栽培


[光清さん]

昔からの馴染みのお客さんが梨を買いにくると、「松本さん、あとは何を作っているんだい?」と。「リンゴかい?桃かい?諸々やっているの?」と。「いや、梨だけです」と、最初はそういう返答だったんですけれど、若い人たちがアルバイトに来るようになってから、若い人たちの考えも取り入れるようにしていて。やっぱり長いスパンで商売をしていくべきかなと思って、キウイやブドウとか、梨の遅い品種まで栽培するようになりました。


梨畑は2町歩、水稲は1町歩、転作大豆は5反歩で生産組合として作業していました。金額ですと1000万~1200万ぐらいの目標を持ってやっていて、ほぼ達成できてきたかなという感じでした。※1町は約1ha。1haは100m×100m。


キウイ(の収穫時期)は早いものから、「ヘイワード」のように遅いものもあります。お盆のころから出るような品種から、9月10月、最終的には11月になるものも。霜が降りてから収穫する品種は「ヘイワード」でした。

※「ヘイワード」:キウイの一種。一般的なグリーンキウイのほとんどがこの系統。


(震災前は、梨以外の品種も含めて)ほぼやっていけるかなという感じでした。


たまたま震災の直前に撮っていた写真を見せながら、畑の様子を説明してくださった(写真=提供)



●日常を一変させた東日本大震災


[光清さん]

あのときは、ちょうど2人で畑にいまして、剪定作業をしていました。そろそろ一服の時間だっていうところで、お茶の準備なんかをしようと話しているところに揺れが来て。


まさかそんなすごい被害に遭うとは思っていなかったので、畑に道具を置いたまま、梨畑から1キロ弱離れている自宅に向かいました。その途中の道路にヒビが入ったりしていたので、これは大変だなと思いました。


普段から作業するときにはラジオをかけているんです。東北放送だったかな。逐一、仙台の方の状況が情報として入ってきたので、家の方も津波が来るかもしれないということで、一度家に戻りました。


ちょうど隣組の班長のときだったので、カメラを持ってあっちこっち自分の担当のところの被害状況などを確認していて、津波が来る時間には、もう状況がひどかったので唖然としながら見ていたんです。「津波が来た」という大きな声を聞いて、10mくらい海岸から高いところから見たら、家の屋根が、プカプカ浮いていたというような状況です。


震災当日に撮った貴重な写真を見せながら、当時の状況をお話してくださる松本光清さん(写真=提供)


熊川のほうに(津波の)主流が登ったので、多分うちのほうには上がって来なかったと、後で思ったんです。でも、もう40何軒かあった家がすべてなくて、もうカメラでシャッターを切るのも切れない状態。すごく動揺していました。万が一の為に、昔から(小さいころから)教えられていた避難場所を頭に入れながら現実を見ていました。


その時はうちのカミさんが別行動で、まず自分の身を安全な場所にということで、女の人たちは、ちょっと高台に行っていたんです。あとは2人とも単独行動になっちゃいまして。


私の場合は、津波が収まったのを確認してから、孫が気になって、隣町の双葉町に向かいました。そこに住む娘夫婦が共働きだったものですから、私が孫2人を毎日夕方迎えに行っていたんです。


いつもなら15分ぐらいで行ける場所が1時間超かかって、やっとたどり着きました。双葉町では、車を安全な場所に置いて、1㎞くらい走りました。当時3才の孫と小学校3年生だった女の子の孫を小学校で捕まえました。そこから建物が倒れた道路を避けながら町の中を歩いて来た記憶があります。


その時にもし車で行っていたら、動きが取れなかったかなと。双葉町の国道から駅前通りが、車の頭を先に入れたほうが勝ちというような感じで、ピーピーブーブーやっていました。その中を抜けてきて、また同じルートで家に戻りました。そこからおふくろが原発から1キロちょいくらいのところの特別養護老人ホームに入っていたので、そこに行きました。娘がそこで事務をやっていたので、孫も連れて。そうしたらうちのカミさんも、先に行っていました。


[緑さん]

私は、津波で避難してきた人の中を車で移動して、通る道がないので、歩道を車で通って、おばあちゃんのところに着いたという感じです。


[光清さん]

そこからどこか離れようという話もあったけれど、せっかく来たから、ここで一緒に行動をして欲しいと言われまして、移動で荷物持ちとか、そういう準備なども手伝いながら、職員と一緒に、そこから移動することにしました。



●避難指示に感じた「異変」


[光清さん]

夕方7時頃、薄暗くなってから、町のほうから原発のことは言わないで、とりあえず安全な場所に避難するということで、町の保健センターに移動指示があったんですけれど、これだけの大人数が移動するのは大変だから、明日明るくなってからということで1回断ったんです。


そうしたら、7時過ぎになって8時頃かな。「生きている人は全部移動だ」となって、だから「原発でも危ないのかな」という感じで、1時間半ぐらいかかって、そこまでやっとの思いで移動しました。


余震が強くなって天井がかなり揺れました。西のほうに向かうということで、次の朝10時頃に出発したんですね。うちのほうに回ってきたのは茨城交通のバスでした。最初は、朝5時ちょっと前、4時半頃に表を見たら、20台ぐらいのバスが通ったので、このバスが何だ?って思ったんです。まさか事故でという話はなくて。結果的に、そのバスが政府からの手配で迎えに来たって。


大熊町の場合は、そのバスを結構捕まえられたので良かったんですけれど、隣の双葉町なんかは、そういう話がなかったみたいです。何台かやっと掴んだり、自衛隊派遣で、自衛隊のトラックが来たらしいですけれど、そういう点ではうちのほうはまだ数珠つなぎになって動けないという状態はあまりなく移動はできました。


ただ、人数が人数なので、寝たきりのおばあちゃんから、足が不自由なおばあちゃんなんかもいるんですけれど、車椅子での移動もいました。大熊町で用意したでかい体育館があるんですが、そこに入りきれなくて、移動、移動でやっと見つけたのが、田村市船引小学校の体育館で、そこにやっと全員保護してもらいました。



●鹿沼への避難…立ちはだかったのは「放射線検査」だった


今回の聞き書きにご協力くださった松本さんご夫妻。(写真=提供)


[光清さん]

(震災直後は)何箇所か転々と。たまたま鹿沼に職を持っていた4番目の子供とカミさんが連絡を取って「とりあえず鹿沼の俺のアパートに落ち着け」ということになった。


体育館で放射能の検査をしないと福島から出られないという話も急遽わかりまして、それを受けに行ったときに、全員が防護服だったところを見て、これは本当にすごいことになりそうだと思いました。その検査を受けて、次(3月18日)の朝4時頃に鹿沼に落ち着きました。



●ふるさとを失った悔しさ


[光清さん]

(原発事故で)全然生活が変わってしまったんです。ふるさとも失った。うちらの辺は、中間貯蔵施設のエリアになっちゃったんです。だから帰るすべもない。


事故の後、一時帰宅をすると、悔しさと無念さ。梨畑は何年かはそのままの状態でいましたから、花が咲くと子孫を残すために実は生るんです。それを見ると悔しかったですね。仕事を半端で避難してしまったのでなおさらなんです。


光清さんは「手入れできなくても一途に生きている木を見ると涙がこぼれました」と当時を振り返る(写真=提供)


[光清さん]

一時帰宅も、どのように変わったかという好奇心の感じもあって見に行くけれど、現場を見るとがっかりして、帰りは行くときのようなワクワクはない。そういうものが消えてくるんです。だから帰りは辛かったですね。



●大熊の家に「帰りたい」と「帰りたくない」 気持ちの葛藤が続いた


[緑さん]

戻りたいかと言っても、グチャグチャで、ネズミとかがいて。家はあるけれど、戻りたいかというと大熊には帰りたくない。でも、やっぱり生まれた家だから帰りたい。


人影がなくなった家の中を、ネズミやイノシシ、ハクビシンが荒らしていく(写真=提供)


[光清さん]

4~5年後までは、このぐらい(左上の写真)でいたんですよ。家の中も。でも玄関を破られて、もう戸はない。この頃は行けば片付けをしていたんですけれど、もう今は足の踏み場もないし。

クズ大豆を集めて、重ねておいたんです(右上の写真)。それが1年で変わったんですよ。なんでかというと、ネズミが食べる(右下の写真)。


[緑さん]

このこたつ(左上の写真)の中に、ハクビシンが。この中に巣を作っていて10匹ぐらい。この光景を見て家主が変わったと感じました。


(左下の写真)畳の上に広がるのは、ネズミの糞。中央にあるビール瓶のふたと比較するとその大きさがわかる。「飛び出したものを見て、ネズミだとは思わなかったです」と光清さんは話す。


[光清さん]

たまたま2年ぐらい前くらいに行ったときに、門口に車を止めたらイノシシが尻尾振っていて。


[緑さん]

大きいし、なつく。


[光清さん]

人間慣れしてね。あれにはびっくりしました。


あとは「正月に松本さんのところでイノシシ飼っているんだ」なんて、子が5~6匹いるやつをメールで送って来てた人もいたり、「イノシシ飼っているのかい?」というメールをよこしたりする人がいるんですよ。


やっぱり現場に入っている人たちもいるので。除染とか、水田を整地して汚染土置場を作ったり、現場に入っている人たちがいっぱいいますので、たまにそういう冗談メールが来ますけれど(笑)



●「今のところで馴染んでいくしかない」


[緑さん]

孫の学校関係、友達関係で、今の鹿沼から離れられない。友達もできたし、離れられない。


[光清さん]

孫の家を作ったのも我々だし、最初避難してきたときに鹿沼に安全策を取って来たということもあるし、やっぱり責任があるので、我々がじゃあいわきに戻るというようなことは言えなかったですね。


[緑さん]

いわきに移っても、今の場所と一緒で知らない人ばかりだし、鹿沼でも知らない人ばかりだから、やっぱり今のところに馴染むしかないし、大熊に行ったとしてもやっぱり知らないんですよね。大熊も。


[光清さん]

大川原地区に役場を置いて復興拠点にして、復興住宅などもやっていますけれど、同じ大熊の人たちだったけれど知らない人が多いんです。そういう中に今更溶け込んでいくのも、ちょっと厳しいです。


[緑さん]

やっぱり今のところで馴染んでいくしかない。鹿沼の人たちは、みんな親切ですよ。避難者として面倒を見てくれる。


[光清さん]

我々は避難者という感じではなくて、もうここに永住で住み着くつもりだという思いで頑張っているんだけれど、鹿沼の一部の人たちに「松本さん、いつまで経っても避難者は避難者の立場だよな」と言われた。「何を言っているんだ、この人は」と思ったけれど、避難者はやっぱり避難者なんだとがっかりしたこともあります。まぁ一部の人間の言葉を気にしながらというのも嫌なので、流すぐらいの気持ちでいます。毎年「共働まつり」イベントがあり、原発立地町なので、その時の様子などを写真やドローン映像を編集して発表しています。


●離れていても、大熊の「伝統」守りたい


熊川の諏訪神社で行った獅子舞の予行の様子(写真=提供)


[光清さん]

やっぱり町とつながっていたいという思いは今でも強いですから。今は休んでいますけれど、地域で郷土芸能も個人で携わっています。震災2年目で負けてられるかっていうことで復活させて。


獅子舞なんですけれど、なかなかなり手がなくて、覚えるまでの苦労が大変なので、親御さんも「はい」って手を挙げるわけにもいかない。ましてや、バラバラになっていますから。


今の子供たちは、震災後の2代目。いわきが3人に、茨城県鹿嶋市から1人来てくれて、練習をしてもらっています。震災当時は紙おむつをつけていた子供までが頑張ってくれています。


震災前であれば、小学校の3年生ぐらいから4~5年やってもらって交代していくということだったけれど、今回はいないので小学校2年ぐらいですね。最初は鬼ごっこしているような感じでした。だましだまし。やっぱり続けてもらわないとものにならないので、今の子供たちをとにかく一本立ちさせたいです。


お頭に鹿の角をかぶるんです。かぶって踊ると頭が重いので、動きがなかなか子供たちはまだ難しいようです。私は笛・唄・法螺貝を担当しています。


[緑さん]

女の子もはじめて。


[光清さん]

女の子もはじめて入れさせてもらいました。今までは女人禁制。


歴史的には250年ぐらいあるんです。町の無形文化財の指定は受けているんですけれど、県のほうに申請しようとしたときに、昔からの獅子舞の資料を持っていた家が神社の隣にあったけれど、戦後焼けてしまって資料が全部なくなってしまった。口伝えというか、そういうもので書き出してみたけれど、やっぱりきちんとした資料がないとダメということで県からは却下されました。


でも昔から受け継がれてきたものなので頑張っています。向こうとの絆ということで、特に私は大事にしているんです。


そういうものは「伝えよう」という気持ちが前に出てこないと、風化しちゃうと思うんです。町なんかでも、いろんな昔からのものとか、物語とか、そういうものを継げてはいますけれど、それを元の町民こぞって応援しているかというと、それも疑問なんですね。本当に使命感を持ってやっている人間だけが苦労している。そういう感じに取れますけれどね。


この獅子舞も一緒ですが、やっぱり昔からやってきたからやめられない。そういう使命感でやっています。ここの地区の人たちは、そんなにしっかりは捉えていないし、練習風景を楽しみにみんな来てくれますけれど、ただそれで終わっちゃうような雰囲気が強い。


梨仲間の中には、文化財保護委員もいるんですけれど、その人たちもやっぱり使命感でやっています。もっともっと興味を持ってもらいたいけれど、しょうがないな、自分がやるしかないなという話をしています。


町民がどうだと言うと、気持ちは離れて来ているかもしれないですね。特別そういうところに携わったとか、関心がある人以外は。



●大熊町は「ふるさと」


[緑さん]

(大熊町は)ふるさと。なくなったけれど、大熊町があるというだけで違いますね。


[光清さん]

自分の生まれ育ったところと同じ町内なんですけれど、こっち(妻の実家)側は除染が終わって引き渡しを受けて、実家も更地にしてあるんです。そういう状況と自分のところ(自宅)は立ち入り禁止の場所になっていて家が残っている。


やっぱり生まれた場所なので捨てがたい場所にはなっているんですけれど、今考えるとやっぱりふるさとになりつつある。未練はないかと言われると、未練はあります。あの場所を戻してもらえるなら、行きたいという思いもあります。でも、それがかなわない現実と葛藤しています。






◆編集後記

たくさんの写真を交えながら、お話をしてくださったのが印象的でした。松本さんご夫妻の農園で、梨狩りをする子供たちの笑顔が目に浮かびました。震災後の生活についてお話しくださった部分では、あたたかな「日常」と大切な「ふるさと」を失った悔しさがひしひしと伝わってきました。そして、避難者の分散による伝統芸能の風化は、今後きちんと向き合うべき問題だと感じました。


【聞き手:塚原千智】



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