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【あじさいプロジェクト】大熊町聞き書き活動05 石橋英雄/裕子さん

更新日:11月15日

2020年12月6日、現在は福島県いわき市にお住まいの石橋英雄/裕子さんご夫妻に、オンラインでの聞き書き活動にご協力いただきました。震災以前は、大熊で幼稚園の先生をされていた裕子さんと、消防に勤めた後農業をされていた英雄さん。当たり前だった日常を振り返っていただき、今の思いを伺いました。

※聞き書きについての説明はこちら


● お二人のあゆみ


裕子さん

私は大熊町で生まれて、将来的にも就職も大熊町でしてきました。小さいうちから、この家取りだよということで育てられたんですね。ずっと進路もお父さんに決められていた感じなんですよね。そのまま路線に乗っかってしまって、洗脳されて育ったというか、「裕子は跡取りだからな、ここでちゃんと墓守しろよ」と言われて育ちまして。自分の将来も本当は小学校の教諭になりたかったけれど、お父さんから「県職員だから移動があるし、小学校や中学校はダメだよ、大熊町の中で就職しなさい」と言われて、幼稚園ならいいと。そういうふうに進路も決められたんですね。


英雄さん

私は大熊町の隣町の富岡というところで生まれました。大学で東京に4年間いて、もう東京は嫌だとなってしまって田舎に帰りたくていたら、ちょうどその頃消防署を立ち上げようということで、いい仕事かなと思って22才で消防署に勤務しました。次男坊なものですから、自由ということで、今の奥さんとお見合いをして、いろいろいいなとは思ったけれど、名字が変わるのが…と思って一時期交際をやめたんです。そうしたら、私の消防の上司が大熊町の人で、「英雄君、ちゃんとよく考えて、いい人なんだから」って。もう一度お付き合いを始めて、それで。婿入りした石橋家は農家というか、兼業農家だったんです。私はまったく農家はやったことがないから、どんなことをするかもう嫌で嫌で。でも農家にも憧れたのかもしれない。結婚する前に耕運機を友達の家に行って練習したり、そんなこともしていました。消防には34年勤めて、農業するかと思って57才のときに辞めました。裕子が公務員だから収入は安定しているということで、私は農業でやっていくというよりも遊びながら、田んぼと畑でカボチャ、梅も育てて。それでも30年以上やっているから、私のほうもプロです。10年前まではカボチャを1,500個~2,000個作っていました。そして10年前、震災に遭って、今はいわき市の四倉町というところに、おばあさんと裕子の妹と4人で暮らしています。


<聞き書きにご協力くださる石橋英雄さん(右)・裕子さん(左)>(写真=提供)


● 消防と原発


英雄さん

今は原子力発電所が問題になっていますけれど、若いうちから予防というか、消防設備の方ずっとをやってきました。東京電力の建物というのは、50メーターもあるすごく高い建物で、無窓階って言う窓がない建物なんです。ですから、原子力発電所の消防設備ってのは東京消防庁よりもすごい、日本で1位くらいの消防設備でした。それをこんな小さい消防本部の中で検査して、立ち入りとかをする。相当苦労したというか、勉強して。発電所の副所長の人が防火管理者なんですが、そういう人と対等に話さないとならないわけですから。例えば、1つの消防設備をつけるとかでも、建物が大きいですから全部で何千万とお金がかかる。あと原発の非常電源。あれも消防設備も同じ非常電源。ですから、震災のあの当時は、もうちょっと高いところに非常電源の設備があれば、津波でも大丈夫だったというか。そういうところまで深く考えますけれど。



● 英雄さんのカボチャ


英雄さん

消防から農業をやる2年前ぐらい、息子は大熊町の農協に勤めていたんです。それでうちでもカボチャをやってくれないかということで、じゃあ、畑を借りてやろうということで。私はあまりタッチしていなかったんです。そうしたら息子は仕事が忙しくなってしまって、手入れしないから、私がしょうがなくやるようになってしまって。隣近所でも結構やっていたんですけれど、最後まで残っちゃった。私1人で本気になってしまって。1,500~2,000個も。1人でやっても面白かったですね。


裕子さん

種からやっているんですけれど、カボチャもなかなか大変なんです。カボチャはね、大体4ヶ月ぐらいかな。カボチャが終わったら、その後にブロッコリー。


英雄さん

こだわりは、うちの方では業者が道路脇の草を町で刈ってくれるんです。そしていっぱい草が溜まりますよね。それをダンプでどこかに捨てに行くのを、もらっていたんです。それをカボチャのところに敷いて。これでダンプで10台以上かな。これは次の年の肥やしというか、肥料にすきこむというか、トラクターで耕すといいカボチャができる。


裕子さん

手作業だったから、大変だったね。これはみんながみんなやっていたわけじゃなくて、英雄さんがいろいろ失敗例を乗り越えて、自分で考えてやったやり方なのね。「こんなでっかいのは誰が買うの?」って私は言うんですけれど、そのくらい規格外でした。


英雄さん

農協の中に野菜部会みたいなのがあって、そこではほうれん草を作っていたり、ブロッコリー、カボチャとか、いろんなのを作っていて、何が楽しいって、みんな小遣い稼ぎぐらいだから。これで儲けようということではなくて、だから、お金をみんなで集めて旅行に行くとか、飲み会をするとか、そんな感じでやっていました。これをなかなか専業でやるというのは難しいですね。最初はこおろぎに食べられたりしていいカボチャができなくて、そういうのは売れないんです。それを売るためにどうしようかということで、うちの息子が勤めているトマト会社の直売所で売ってもらうようになって。カボチャを煮て、それを持って行って、試食してもらって。「カボチャの形は悪いけれど美味しいです。」と。大体スーパーの半値。それから少しずつ、朝持って行って、午前中でなくなったから、午後も持ってきてと。ちょうど軌道に乗ったというか、そのときに事故が起きてしまって。3月に種をまくんですが、なかなか芽が出て来ないんで、温めたり、お湯に入れたりするんです。笑い話だけれど、事故のときに、ちょうど腹に入れて温めていたんです。それをそのまま避難所まで持っていって、そっちで芽が出ていましたけれど。3~4日気づかなかった。忘れていた。そんなこともありました。




<右:お孫さんとご夫妻 畑での一枚、左:規格外のカボチャとお孫さん>(写真=提供)



● 自慢のホタル


英雄さん

あと私はホタルが好きでと言ったらおかしいけれど、ゲンジボタルを育てたというか。大熊町は、いろいろな場所にホタルが出ていて、うちの前にもたまたまそういう場所があって、田んぼの草刈りのときに、そこを見つけて。


裕子さん

ホタルが食べる貝をきれいな田んぼの横の水の中で育てていたみたい。そうしたら、そこにホタルがたくさん来るようになったのね。水の流れもきれいにしていたから。ちょっと有名になっちゃったのね。一応この場所は皆さんに知れて、町内の人が、暑いときに路上駐車して、みんなで見ていて。私たちはスイカを出して接待したり、「食べて、食べて」なんて言って楽しみましたね。発電所の方たちとも交流があって、夏だと特に関心を持ってくれて。


英雄さん

原子力発電所の敷地の中で、ホタルを育てていたんですよ。池を掘って、小川みたく作って、そこでやって。春になると桜も咲く。私らは出店みたいなものを出して、お祭りみたいなものを震災の直前までやっていたんです。それで(2011年)3月27日には、ホタルの幼虫を放流しましょうということで、私らも一緒にやりましょうと。やる寸前にこういう形になってしまって。だから、私個人としては、そんなに東京電力の人に対しては...先程言ったように消防でも結構お世話になったんです。こんなことを言うと怒られるけれど、ホタルのおかげじゃないけれど。電気新聞とかも東電のほうから送ってくれて、すごい力の入れようでした。いろいろ叩かれて大変だけれど、それは会社的な問題だけれど、こういう形でいろいろ協力してもらったこともあります。


裕子さん

今日はこの近くの大川原というところにまたホタルの幼虫を見てきたんですけれど、少しずつ大熊町のカワニナ*という貝を活かして、ここでホタルを育ててみたいというような有志の集まりで動いているので楽しみにしています。

(*カワニナとは蛍の餌となる貝です。カワニナを他の地域から持って来るのではなく、大熊町のカワニナを用いて蛍を増やす活動を行おうとしていらっしゃいます。)


● 震災で変わったこと


裕子さん

自分の姉妹は、それぞれみんな県外に行っています。東京や千葉、神奈川とか。親戚同士はそうね、私が震災のときから関係が切れちゃったかな。震災で町全体が会津若松市に移転したときに、私も会津若松市のほうに行ってまして、そして四倉町に避難しての生活だったので、それ以降ぷっつり切れちゃいましたね。コロナになったから更に行き来はしていない状態で、うちの母親も寝たきりになったので、今東京のほうから来ると大変なことになるからということで、妹も私も拒否していて。だからほとんどなくなっちゃいましたね。電話とか、メールとか、そこの部分も欠けちゃいましたね。今までのがなくなりました。


英雄さん

震災後にいわき市に住んで、いわき市に住んでいる大熊町の人たちだけで会を作ろうと4つの会ができたんです。大熊いわき会とか、大熊友の会とか、私たちの会がふるさとおおくま会というのを作って、そして交流会を毎年4~5回開いて。どういうわけか私が会長になってしまったので、今度、いわき市の蟹洗温泉で交流会を開くんです。今はコロナの時期で、ちょっと大変なんですけれど、そこで40名ぐらいが集まってやろうと決定しています。そういうことで知らない人も結構知り合いになりました。今まで全然わからなかった人と友達になって、そういうところは本当に良かったなという気がしています。


● 後世に伝えたい伝統


英雄さん

今私は文化財レスキュー隊ということで、大熊町の海のほうの中間貯蔵施設ということで、全部国で買い上げるか、または借りるか、地上権、ほとんど壊すところが多いけれど、そういうところに昔からの珍しいものとか、ちょっと今は見られないものとか、そういうものを探し出して、体育館とかで預かって、それを保管しようという運動をしています。今月に1回ぐらいずつ、どんどん家を壊すというか、解体しているところが多いので、特に大熊町は3つに分かれていて、海のほうは中間貯蔵施設ということで、ほとんど自分の土地はなくなってしまう。私たちの家がある鉄道から国道の間は、白地ということで住民も自由に入れないんです。あともう1つは、ある程度自由にできる。3つの地区に分かれているから、そういうところでなるべく後世の子供たちに残したい。こういう生活があったんだって、こういう暮らしがあったんだって、そういうものを一生懸命集めたり、聞き取りとか、なかなか難しいけれど、それを今やっています。


裕子さん

やっぱりいいんじゃないですか。団体を組んでいて。個人一人ひとりではできないけれど、そういうチームとか、団体に入っているからこそできることっていうのはやってもらいたいなと思うね。


英雄さん

来年(2021年)の3月11日で10年目ですよね。避難生活が。10年も後ろ向きになってもしょうがないから、前向きになろうと。復興祭みたいな形でやろうかと少しずつ動いているけれど。私は個人的に、「夜空のトランペット」という素晴らしい曲があるんだけれど、亡くなった方とかに、「元気でいるかい?」と夜空に向かって、まずそれを1つやりたい。あとは希望のトランペットみたいな、そんなことでもできればなと。

♦︎ 編集後記

石橋さんご夫妻の視点から見る大熊町や発電所、震災が印象的でした。ホタルや畑についてもたっぷりお話しくださり、大熊で丁寧に作り上げていらした暮らしが頭に浮かびます。町を離れた今でも大熊を想う気持ちに溢れるお二人が、取り戻したい、残したいと思う大熊町の姿を、この活動を通じて少しでもお伝えでればと思います。


【聞き手:鈴木愛奈】


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