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【あじさいプロジェクト】大熊聞き書き活動07 鎌田清衛さん

更新日:11月15日

2020年12月6日(日)、福島県大熊町の出身で、現在は福島県須賀川市にお住まいの鎌田清衛さんにオンライン上での聞き書き活動にご協力いただきました。震災前は大熊町で梨の栽培をされながら、大熊町の記憶を残す、大熊ふるさと塾の顧問としても活動していらっしゃいました。現在もふるさと塾の活動は続けていらっしゃいますが、震災前のようにいかないのが現実です。鎌田さんの大熊町に対する思いについて語っていただきました。

※聞き書きについての説明はこちら



● 大熊ふるさと塾の意義



(大熊町のいいところは)やっぱり一番は自然でしょうね。素晴らしい自然があったんですけれど、その自然が放射能で汚染されている。そこが一番悲しいところですよね。今はどんどん除染しながら、戻って来れるような状況作りを町は行っているところです。ふるさと塾としては、それが主体ではなくて、それのお手伝いをするという形になっていくと思います。

ふるさと塾の事務局をやってくださっている石橋さんはホタルの生体環境、それらの行動を(研究)していますので、ホタルが住めないようでは人間も住めないでしょう。自然が良くなかったら人間も住めないでしょうということで、少しでも戻そうと。一時は全部ホタルもいなくなるぐらいの状況でした。だから今ここ大川原地区が除染されて人も戻ってきていますので、まずこの地区でホタルを復活させて、「このくらいきれいになったんだよ」と。「みなさんおいでください」と言えるように、自由に遊べるような環境を作ってやりたいなというのが、ふるさと塾として全体の考え方ですね。


(大熊町は)別に取り立ててこれがいいというものじゃなくて、自然があふれた中で住みよい町だったということですね。他と比較してこれが絶対に良かったということではないと思います。ふるさと塾を最初に立ち上げたときは、「大熊町は原子力発電所しかないよ」と言う人が多かったんですね。外観から見ても。そんなものじゃないよと。大熊町には素晴らしいものがありますよ。子供たちが見て、うちが住んでいるところが素晴らしいよと言えるような、そういう町の中のいいところを探そうというのが、最初の立ち上げの頃の考えですから。その中でいろいろと発見があって、素晴らしかったなと思うようなことはありますね。

だからそれが全部震災と原発事故によってご破算にされた。だからそれをもう一度復活させるというよりも、素晴らしかったよという現実をなんとかして残せればと。復活することは不可能かもしれないんですけれど、こういう状況でしたというのは、記録としては残せると思うのです。


● 大熊町と原子力発電所



大熊町に原発を作るという話が出た頃は、私はまだ高校を卒業するかしないかぐらいで、その頃、私は個人的に原水爆禁止運動をしていたの。ビキニ環礁で原爆実験があったり、アメリカとイギリスとフランスがあっちこっちで原爆実験、水爆実験をやっていましたよね。原発とか、水爆の恐ろしさがあって、署名運動などもあったんですよ。

高校卒業間際の頃は、(世間では)一生懸命一般の家庭を回って、原水爆反対の署名運動なんかをして、総理大臣と衆議院議長、参議院議長に送るような、そういうこともやっていましたので、原発そのものが絶対に平和産業で大丈夫なものでありますよ。というのは、半信半疑でした。ですが、(私は)まだ高校卒業したぐらいで、反対運動とか、そういうものができる状況ではなかった。私は卒業してからすぐに農業を始めたので、ずるずるずると流されてきたような感じがします。原発の中で働いている人たちもいっぱいいました。大熊町は震災前ですと、おそらく町内の半分近い人たちは、原発と原発関連企業に勤めていたんじゃないかなと思うんですよ。直接ではなくてもね。だから、そういう中で、原発というのは、やむを得ないと思いながらも、自分は一度も原発関連の仕事には行ったことはないです。


(原子力関連の仕事についていない人は)2~3割ぐらいでしょう。1つの家族の中で、誰かは関連企業に勤めているとか、そういうこともありましたから。ふるさと塾に入っている方で、旦那さんは原発の社員で、奥さんはふるさと塾の会員です。という人もいっぱいいましたよ。

ここ(大熊町)で結婚して子供ができて、住んでいて何十年か経ったら、大熊町はどういうものなんだと。それから子供たちのふるさとになるところを知りたいと言ってふるさと塾に入ってきた人が何人もいるんですよ。ですから、昔からいる人だけがふるさと塾ではなくて、いろんな階層の人が入って、大熊町を知ろうというふうになってきていました。ですから、原発は一概に悪かったとも言えないこともあるかもしれないですね。


それと、我々は原発の犠牲者だと思ってはいるんですけれど、避難をして、大震災でまったくマニュアルのない避難をしたわけです。特に大熊や双葉町(大熊町に隣接する町)というのはね。この震災(東日本大震災)の後で、世界的に注目されて、そして万が一、これから他の原発とか、発電所とか、そういうところで災害があったときの避難方法というのは、我々の犠牲になったのが相当見本になっているんじゃないかなと。それがあったから原子力の規制委員会もできたし、厳しい規則もできて、避難方法も全国で騒がれて、これからの東海、東南海あたりの地震があるかもしれないよというときの、避難の方法、マップもできたということは、我々の犠牲になったのも一概に悪かったことばかりではなくて、そういう面ではプラスになったと思えば少しは救われる。そんな感じはしますよ。少しでも前を向きながら生きていくしかないと思います。


● 鎌田さんの梨



うちのほうは高台で水がないんです。それで田んぼではないもの、畑でできるものそれをある方の指導で、将来ここだったらこれ(梨)ができますよという指導を受けて始めたんです。(梨の栽培は)(昭和)28年ぐらいからですから、19才と何ヶ月からやって、ちょうど50年目のときに震災でした。有機質100%でやっていたので、そこに放射能が降ったということだけで、放射能入りで自然なものはないですから、原発がボッとなったときに、「あ、終わった」と思いました。ですから、思い切りは早かった。そんなに尾を引いて考えて悶々とするようなことはなかった。それ以上やったら皆さんを裏切る行為なので、思い切りは早かったです。


この大熊町というのは海岸線でしょう。海岸から近くて、私のところは海から1.5キロしかないですから、ここ特有の夏の間はヤマセという風が吹くんです。6月7月に。その影響で(梨の)栽培は極めて難しいです。病気が多いです。梨の病気というのは、25度ぐらいの気温で、湿度があると木に蔓延するんです。ですから、他の地区よりも過敏になることが多かったです。その代わりできたものは美味しかった。


(畑のお手伝いをする人は)10人くらいいたね。現実は5~6人が多かったかな。ほとんど半日ぐらい。花が咲いている頃ですと、1日やっていますけれど、収穫のときですと半日ぐらいで終わらせるようにして、にぎやかでしたよ。普通梨畑の上ですと、カラスがいっぱい飛んでいるんですけれど、うちがそこらへんでやっていると、パートの人たちがおしゃべりしながらやっているので、カラスも来ませんでしたから、にぎやかで。そのくらい面白くやっていました。


和梨と、あと洋梨を共同で(作っていました)。私が前に作っていた洋梨。大熊では作れないから、今は須賀川に住んでいるので、須賀川で同じものを作っている人と知り合いになったので、そこから今日は買ってきたんです。


これは洋梨のル・レクチェって言うんです。一応洋梨では極上。多分、関東へんで、このくらいの果物ですと、1個500~700円ぐらいするんじゃないですか。


洋梨 ル・レクチェ(鎌田さんが以前作っていらっしゃったものと同じ種類の梨) 写真=提供


● 須賀川市と大熊町



(須賀川市と大熊町の距離は)車で2時間。今は工事をやっているので、2時間20分ぐらいかかるときもあります。大体2時間です。


(大熊町へ行く目的は)大体はプロッタージュですね。プロッタージュと自宅へんを見てくる。それと中間貯蔵の地区内の進捗状況。それは何ヶ月かに1回。それから1年に1回は3月11日頃の休日で工事をやってない日にぐるっとまわる。デジカメでしか撮っていないですけれど、アルバムもあります。行くたびに、状況が変わっていますので、以前の状況も、もうなくなっています。

(※プロッタージュとは表面のでこぼこした木や石などの上に薄めの紙を乗せ、その紙を鉛筆や色鉛筆、クレヨンなどで擦ることで紙の下にある木や石などの凹凸をすり取る絵画技法のこと。)


(中間貯蔵には)最初は反対していましたけれどね。でも反対で済むものでもないなと。ですから、やむを得ずということはあるんですけれど。ただ、大熊町民だという自覚は残しておきたい。ですから、多くの方は自分の屋敷とか、土地とか、手放した方が多いんですけれど、私はあえて全部そのまま国に貸したという状況。地上権設定ということで。30年間国に貸しますよと。貸借関係。という方法でやっています。


(大熊町の)進捗状況については、行くたびに見ているので、1年も2年も見たことがなくて行ったら、びっくりしたという人はいっぱいいますよね。帰らない人はね。二度と行かないという人もいますよ。でも、その進み具合がわかっているので、そんなに仰天するようなことはないですよね。それと私が一番こだわっていたのは、海渡(みわたり)神社という神社があるんですよ。その神社と大熊町で一番高い山と言われるのが、日隠山(ひがくれやま)って言うんです。ここ(大川原)からは見えないんです。西のほうですから。遠くから見ないと見えないんですね。手前の山が邪魔なので。その日隠山の由来、どうして日隠山って言うんだろうと言うのを、追っているうちに25年ぐらい経っちゃいまして、平成15年に探して歩いていたら、海渡神社というところと、日隠山が春分の日と秋分の日だけ、日隠山に沈む日を見ることができるんです。海渡神社の境内から。それは1年にたった2日しかないですからね。2回しか。ですから、それを震災前にふるさと塾で、村おこしにみんなに知ってもらいましょうとやろうとしていた矢先に震災があったので、その神社だけはせめて残したいなと思っていたんです。それを残したら中間貯蔵の施設の用地交渉に応じましょうと言っていたんです。


● 大熊町のことを後世に残していきたい


ただふるさとが失われていくから、できる範囲で自分で自己満足するのに、ただやっている。使命感ではなく、自分で納得するために。


私のところ(住んでいた場所)ですと中間貯蔵施設の用地内なんですよね。ですから、もう少なく見ても30年は戻れない。それから大熊町全体で90%以上が今も帰還困難区域ですから、すぐに戻ってくるということはできないわけですよね。除染をして、完全に大丈夫だよ。と言われない限りは戻れない。そうするとその中で、戻れるような状況になるまでに、おそらく住宅も自然解体するような状況になりますし、それから昔の人たちが、先人が、残してくださった遺跡みたいなもの。あるいは、貴重なものというのは、おそらく失われていくか、朽ちていくというのが、今の大熊町の実態なんですよ。ですから、それを今の私たちにできる範囲で、それを眺めておきたい。そしてそれを記録として残しておけば、そこに後で住むようになった人が、ここはどういう村だったか、町だったかといったときに、歴史を感じられる。そのために今自分の手でできる範囲で、私はただ自己満足でやっているだけです。あとで後の世の人が、利用してくれれば、それは幸いですし、これをこうして欲しいとか、こういう目的があるんだということはないです。


これから先、私が思っているのは、この大地が残っている限りは、ここに多分戻って来る…。必ずしも大熊町に住んでいた人たちの子孫が戻ってくるのではなくて、新しい姿の人たち、例えば、原発の廃炉事業に携わる人や、除染の人たちでも、これから新しくここに住むような状況になったとき、その人たちも、立ち止まって見たときに、ここはこういう状況でしたよとわかるような方法。それはその時代に、震災前に生きていた人でないとわからないことだから、そこに新しく住む人に期待を込めるのではなくて、新たに住んでくださった人が感じてくれる。そういうものじゃないかなと思うんですよ。今までの人たちを相手にする町ではなくて、新たな町が生まれると思うんです。それはやっぱり我々の世代としては、容認しなくちゃならないんじゃないかね。だから、そう見ると、そんなにいつここに来てくれるかわからない人に、これをやってください、これを見なさいというようなことはできないと思っていて、淡々と残してあるもので感じてもらう。おそらく50年100年先、この大地がある限り、ここに人間と生物が住むんじゃないかと思うんですよ。だから、我々は、その人たちが、これから住むようになる未来の人たちの物を残してやりたい。ですから、借り物は大事にして次の世代に残す。悪くしないで残してやる。だから、できる限りは原発の廃材とか、廃炉のそういういらないもの、そんなのは、ここに置いてもらいたくない。このまま置いたら、原発の古墳になっちゃいますよね。あとこのまま300年も500年も置かれたらね。そうでしょう。だからそういう古墳にはしたくない。後の人たちが住みやすいような状況を少しでも作れるように、できる限り残してやりたいなと思っていますけれどね。


(お話をしてくださる鎌田清衛さん 写真=提供)

♦︎ 編集後記

鎌田さんのお話から、大熊町に何か残したい、それは自己満足かもしれないけれど、後から大熊町に住む人がその町がどんな町であったかを知るきっかけになりうるという、鎌田さんの思いがとても感じられました。

大熊町に記憶を残すための鎌田さんの活動を少しでも知っていただければ幸いです。

【聞き手:岩田千怜】




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