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【あじさいプロジェクト】大熊町聞き書き活動08 滝本眞照さん・英子さん

更新日:2022年4月2日

滝本眞照さん・英子さんご夫妻に、オンラインでの聞き書き活動にご協力いただきました。震災以前は、大熊町にてご夫妻で家電製品を扱う滝本電器店を経営されており、2年前からは再び大熊町にお店を構えていらっしゃいます。幼少期の話から、これまでの生活、再出発された心境など、お二人の想いを伺いました。

※聞き書きについての説明はこちら



● お二人の幼少期


英子さん

昔はお風呂は薪を集めて焚いた五右衛門風呂なので、お風呂を焚くのに薪を集めに行かされたというか、それが当たり前みたいだったんですけれど、お風呂を焚くのは私の役目みたいな感じでした。遊びの合間に、そういう仕事というか、お手伝いをしていました。お父さんは電器屋さんに通っていたみたいで。


眞照さん

小学校の頃は、全然そういうことはなかったけれど、中学になってから、家電製品、電気が好きなんだなという感じがありましたね。だから、学校の帰り途中に電気屋さんがあって、そこによく回って遊んだというか、お邪魔して過ごしましたね。


英子さん

そこの旦那さんに、かわいがってもらったらしいね。


● お二人の馴れ初め


英子さん

私は一度美容学校に。でも親の要求で帰ってきて、そのままお父さんは勤めている電器屋さんにちょっと勤めて、そしてそこで出会いました。お父さんは結構年がいっていたんです。12 違うんです。大人と子供みたいな感じで、お父さんのほうは結婚は考えてお見合いをしていたのかな。結婚を申し込まれていて、私は若いからということで、「まだ行かない」と断ったんですけれど、また来て。周りのお世話好きな、行動的な人がいて。私の腕を引っ張って連れて行かれ、今のお父さんに会わされました。私の親のことになりますが、自分の父親というのは、母親を結構いじめたので、自分の旦那になる人はやさしくてと思っていたので、そういうことを考えたらいい人だし、2 年ぐらいで結婚しました。穏やかだし、何しろ一生懸命働いてくれるのが、すごく良かった。本当に仕事が大好き人間で。一生懸命だったので、私は今もこれからも幸せじゃないかなと。お父さんに出会ったことによって。どう話していいかわからないけれど。


● 震災前のお仕事


眞照さん

最初は大熊の駅前でやっていたんだけれど。販売はもちろんだけれど、あとは販売した商品がある程度年月が経てば故障が出てきて、それを修理して。それが主な仕事です。


英子さん

商店の商工会があって自分たち会員がいて、あと女性部もあってというような仕組みになっていましたから、何かイベントがあれば、何かというと皆さんで話し合っていろんなことをやってきましたからね。そういうつながりが強かった。


眞照さん

それから(震災で)避難するまでは、役場のちょっと西側で。


英子さん

これは震災で出てくる 3 年前です。向こうに行ってから 20 年ぐらい経っていたので、店内をリニューアルして、そのときの写真がこれで。

<リニューアル時の滝本電器>(写真=提供)

リニューアルオープンしたときに、うちの息子がちょうど店を継ぎますと宣言をやったんです。スタッフはとりあえず 4 人。息子を入れて、従業員 1 人入れて、4 人で。出てくる前の姿です。皆さん、会社の人の前で後継者になりますって宣言をして、3 年後に震災でバラバラになって、今は別々に暮らしています。

<イノシシの被害にあった店内の様子>(写真=提供)


英子さん

今の(店の)中はこんな感じです。もう破られて。イノシシにかじられたり、荒らされたりして、家の中は、全部この状態。イノシシに荒らされる前もあるんですが、さっきの静かな感じが、こんな感じで、商品もそのまま並んでいて。今は床が見えないです。


● 震災時の様子


英子さん

地震になったときは、私は家の中にいて、お父さんと息子はお店で仕事をしていて、もう 1 人の従業員は、お客さんのところを外回りしていて、そして地震が来て、いろんなものが落ちてくるので、すごくて、これで収まるかと思ったら、また来るから、冷蔵庫は振られて中のものは飛び出して、ものは落ちてくるし、すごい状態だったので、震えていましたけれどね。お父さんは、あのときは店に息子といて、テレビを押さえていましたね。落ちないように。


眞照さん

テレビだけでも押さえきれなくて、やっぱり落ちたのが何台かあるんです。もう 1 人の従業員は外回りしていて、お客さんのところで震災に遭って、しばらく地震が続きましたよね。すぐに終わるかと思ったらかなり。その後、まわっていたお客さんに送られて帰ってきました。あのときは 1 時間ぐらいで帰れる道だったんですけれど、4 時間も 5 時間もかけて、道路がボコボコして通れない状態で。その後、みんなで電気もない、ガスだけは大丈夫だったんですけれど、電気がない真っ暗なところで懐中電灯の灯りで。あの前に津波が来ていたというのがあって、私らはそれはなかったけれど、そういう方もいたということで、本当に心を痛めました。


英子さん

瓦礫があるところを払って、分厚いシートを敷いて、そこに上から布団や毛布をかけて、みんなで。そこで 1 晩みんなで過ごして、明け方早くかな。明けきらないうちに、息子が避難しろって消防の関係で来たんです。「え?避難ってどこに行くの?」という感じで。「どこに行けばいいの?西?南・東?どっち行けばいいの?」って。あとからバスが来たらしいですけれど、私たちは自分たちの車で避難して。南に向かって、いわきに向かって、従業員も一緒に連れて避難しました。次の日に爆発したということで、見て悲しくなって、さらに恐ろしくなって、じゃあ今度はどこに行こうかということになって。そうしたら姉や妹たちも心配してくれたけれど、なかなか電話がつながらない状態で、茨城の娘のところに行って、埼玉の姉に2ヶ月ぐらい世話になって、その頃なんです。パナソニックからの仕事が会津であって福島に戻ってきてホテルで暮らしたんです。メーカーさんの援助があって、仮設の家電の取り付けの仕事を頂いたんですね。ずっと閉じこもっていたわけではなくお仕事をさせてもらったので、無我夢中でやってきました。それが落ち着いて、息子は息子で今度はパナソニックのつながりでサービスに勤めさせていただいて郡山に行って。私たちは会津とバラバラに。その2年後にいわきに来て、今に至っています。息子は結婚してそのまま郡山にいたんですけど、 1~2 年前からはいわきに来てくれて、同じ町ですけれど、違う地区に家を建てて。何かあればすぐ行けるような距離で暮らしています。



● もう一度、大熊へ


英子さん

今のいわきの家が自宅になるということで、商品そんなに並べなくていい、事務所でもいいって入り口の通りのところを大きくとって作ったんですね。仕事と縁切れなかったし、切りたくなかったと思うんですよ。それしかないから。ただ、大熊町での私たちは地域に密着したお店だったので。一人ひとり、一軒一軒のお客さんでつながっていたお店なので、それが今度いわきに来て同じくできるかというとできない。それで躊躇していたんですね。今までのお客さんとつながって仕事してもいいんだけど、それだけじゃあ食べていけないんじゃないかって。だからといって仕事もいきなりドンと辞めたくない。切りたくない。悶々と 1 年いたんです。

そんな矢先に商工会から「今度商業施設建てるんだけど」って話が合って。募集もあったんですけれど、全然その気なかった応募もしなかった。だから、最初は帰ることは考えてもいなかったんですけれど、商工会の懸命な説明で、じゃあやってみようかということで今回(2019年)応募しました。

お店としてはね本当に先人を切って、私たち 3 店舗は出したんだなって。その後、少しずつ増えていく。来年は商業施設なんか本格的になって、ちょっとにぎやかになるんです。私たちはロートル(年寄り)二人が一生懸命頑張っているんですけれど、どこまでできるか。



● お店を通したお客さんとの繋がり、お店の未来


英子さん

10 年前から比べたら難しい状態ですね。人がいないので。ただ、10 年前からいろんな仕事をいただいて、なんとか仕事を絶やさないで来れた。公営住宅のお客さんが利用してくださるので、入居者が入って仕事をいただいて去年(2019年)は忙しかった。普段はそんなにないですね。


眞照さん

うちの場合は、どうしても個人的なお付き合いなので、離れていても切れていない人が今でも一部にいます。


英子さん

町を離れて、バラバラになっている方の中にも依頼してくださる方がいて、行ったりします。(震災以前から)つながっている方との繋がりはね、残したいですね。世代交代になって、今度子供さん世代になると、世の中はネット社会で、何でもネットで買い物ができる時代なので。子供さんとの面識や関わりが私たちはなければ、薄らいでいきますよね。それはしょうがないと思いますけれど。お父さんがすごく気に入っていただいていたお客さんが亡くなったりして、すごく寂しいですね。


英子さん

今のお店で息子が来てやるとなったら、多分家族養っていけるかっていうと、私たちももっと頑張んないとって思うけど、本人が今だにサービスの仕事をしているので、給料分は稼げるので無難にいくのか、あとは商売やって商売の面白さをもっと知っていくのか。そのへんは固まっていないというか。息子に選択を委ねるしかない。「継ぎなさい」とも言えないし、この状態(震災前の状態)ならこのままいっていたんですよ。でも今こうなってからは(コロナ禍では)このお店継ぐって言うのは、息子がやるっていえば別にいいですけど、「やりなさい」とは言えないですよね。いわきから通って。そのへんが私たちの悩むところです。私たちの代で終わるのかなと思うと、ちょっと寂しいですけれどね。



● 大熊の梨、忘れられない景色


眞照さん

大熊町といえば、まず梨。大熊町の梨。これは有名。今はそれはないので懐かしいな。残念だな。


英子さん

梨の花の時期になると真っ白な花が咲いて、あれを山上から見たときは、わ~、すごく綺麗って思いましたね。あとコシアブラっていう山菜を、大熊に来て初めて味わって、虜になって。その時期になると必ずコシアブラだけは取りに行きました。三森山の上に行くと、ステーキなんかによく使うクレソン。クレソンが、小川の綺麗なお水の両脇にいっぱい出ていて、よく摘んだりしましたね。ミヤコワスレも一面にばーっと咲いていました。そういう大熊の景色がいまだに脳裏に残っていますね。

いろんな町でいろんな特産品や伝統的なものがあると思いますけれど、大熊も今言ったように梨とか、鮭とかも上がって来ましたから。何十年後かには、また継がれていくのかちょっとわからないけれど。できれば大熊らしいものが残って欲しいですよね。



● 一緒に過ごす時間


英子さん

孫や子供らが来たときに、寝るところもくつろぐところがないというのが、10年前はそうじゃなかったので、狭いとかそんな思いさせられないっていわきの自宅を建てましたね。自分たちの家で寝泊まりして、一緒に過ごす時間が欲しい。孫がまあ本当にかわいすぎる。一番最初に見て、一番手をかけた孫が、一番慕ってくれるというか、なついてくれるので。高校生になっても私のベッドで横に寝るの。いまだに来ると。「もう大きくなったんだから、下に寝ていいんだよ、自分 1 人で寝ていいんだよ」と言っても、「いい、ばあばのところでいい」って、いまだに私のベッドに寝てくれる。だから、来ると癒やされているんです。私たちに甘えて。逆に私のほうが子供たちに甘えているんでしょうけれど。



● 残したいもの


英子さん

子供たちは子供たちでそれぞれ大熊にいましたからね。それぞれ大熊の思い出があると思いますけれど、自分のうちがここにあったとか、こっちで生活して育ったとか、そういう思いは、子供たちにとっては残ってはいると思うんですけれど。姿が変わると、あれ?どこだっけ?という感じになるかなと思うんですけれど、それはしかたないのかな。子供たちは子供たちで世界や住む場所ができているので。でも大熊も忘れてほしくない。子供たちも今は頻繁にくるのは大変ですけれど、私たちも生まれて育ったところですから、忘れられないし、子供たちにもここで生まれ育っていったという思いは、忘れないで欲しい。これからも忘れないと思うんですね。大熊町は、子供たちの記憶から消えないと思っています。


<聞き書きにご協力くださる滝本英子さん(右)・眞照さん(左)>(写真=提供)



● お二人のこれから


英子さん

あれから 10 年経って、お父さんの年齢も結構きてるので、何才まで身体が健康で家電のお店をやっていけるのか。もう隠居してもいい年ぐらいなのに、頑張ってエアコンをつけたり、アンテナを直したり、重たいものを運んだりしているので、「俺はもうできないな」と言うまで、何才までできるのかなと。それがお父さんの挑戦かな。無理してはできないけれど、できるだけ長く続けられたらいいなとは思っています。

私たちは、一人ひとりが別々に個性があったとしても、どっちが抜けても欠けても多分ダメ。2 人で 1 つのことをやり遂げる。やるしかないんだよねって、最近しみじみと年取ってから思っています。昔はバラバラで好きなようにお父さんはお父さんで、私は私だったけれど、今は何か 1 つのものを成し遂げるにも 2 人で成し遂げる。協力してやるしかないね、時々そんな話をするときもあります。

あと私は夢というか、ささやかな夢なんですけれど、来年新しくお店ができたら、オープンとかイベントとか、年末売り出し夏の売り出しとかってやってたんですけど、前のようにお餅やおにぎりを作って、お客さんに振る舞ったりしたいな。またお客さんと一緒にワイワイとね。そんな時間が新しいお店でできたらいいなと思います。ささやかな夢です。

 

♦︎ 編集後記

町に密着したお店で築き上げた「繋がり」を大切にされながら、新しい場所でも挑戦を続けられる滝本さんご夫妻。お二人のお仕事やご家族に対する想いを感じた聞き書き活動でした。世代交代も起こる中ですが大熊町での様々な記憶を、この活動を通じて少しでも残すことができればと思います

【聞き手:鈴木愛奈】



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