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【あじさいプロジェクト】大熊町聞き書き活動10 渡辺信行さん

2020年12月20日、現在は福島県いわき市にお住まいの渡辺信行さんに、オンラインでの聞き書き活動にご協力いただきました。大熊町夫沢(おっとざわ)の長者原(ちょうじゃはら)地区、原発から300メートルの場所にご自宅があり、中間貯蔵施設の建設に伴う取り壊しが決定しています。震災以前は建設会社の経営、農業に加え、町会議員を勤めておられ、避難生活や中間貯蔵問題などにも最前線で関わってこられた渡辺さん。これまでの経験と、若い世代に伝えたい想いをお話くださいました。

※聞き書きについての説明はこちら



● 昔話

笑い話だけれど、うちのおじさんが第二次世界大戦に行ったとき、あそこ(原子力発電所のあたり)は飛行場で赤とんぼの練習飛行機がいっぱいあったので。うちのばあちゃんによく聞かされたのは、B29がちょうどうちの真上を通る時、飛行機が攻撃されないように、うちの竹やぶまで引っ張ってきて、隠したわけです。そうしたら、人間が目視でパイロットの顔わかるぐらいの低空飛行で空襲があって、おれのうちは一番近い目印に。手榴弾というか、あれが茅屋根に刺さって、先に俺んちが焼けた。その当時ね、そんなことがあったんです。今は考えられないよね。


● 大熊の伝統文化

<じゃんがら念仏太鼓踊りの様子>(写真=提供)


これは私らの部落でやってきた長者原じゃんがら念仏太鼓踊り。お盆の14日に、長者原に塞神社ってあるんですね。そこで年に1回必ず奉納する。なんて言うのかな、部落一致妥結して生業をやってきた。部落に後継者を作っていくために、小学生とか、中学生に教えているというか毎年こうやって我々は継承してきた。長者原じゃんがら念仏太鼓踊りと、熊川の鹿舞(ししまい)、これと諏訪神社の諏訪太鼓、あの当時は3つが大熊町の無形文化財でした。


● 幼少期

うちの辺は、自然がものすごく良くて、私が小学校の頃は、今の第一原発は私らの遊び場だったんです。昔塩田があって、お盆になると必ずばあちゃんに言われてお墓にあげる花取りに行って。それを仏壇にあげる役割というか、子供がやっていたんです。秋は稲刈りをして、藁の束で家を作って、その中でみんなで遊んだ記憶があります。冬場になるとパチンコで野鳥を取るような遊びをやっていました。小学5年生ぐらいからだな、(発電所の)建設にあたり東京電力の敷地内にアメリカ人の家族の部落が10軒ぐらい。中学の頃は、草をむしったり、お掃除をしたり、そういうアルバイトをしていました。1日あの当時は500円で。オーストラリア人の先生がいて、その方のドラム缶でお風呂に入ったり。



● 大工の修行

将来手に職をつけるという上で、いいんじゃないかなと思って大工の道に進みました。長男ということで、中学校を出て、東京に町稚奉公というか弟子に行って、12~13年東京で仕事をしていました。東京の高円寺の武蔵野八幡宮。新宿区の永昌寺というお寺もやりました。20才のときにうちの家内と一緒になって、娘と息子ができて、福島に戻ってきて、28才か29才のときに独立してから(建築の会社を)自分でやっています。


● 農業、そして議員に

農業は親父がやっていたので手伝う程度だったけれど、私が30いくつぐらいだったか、建築の会社で職人を抱えているので、遊ばせないようにということで、農業に手を出して。建築の仕事があるときは現場に朝晩行って、職人たちに指示して、帰ってきてから種をまいたり苗を作ったり、農業は1人でやりました。収穫は、うちのお母さんとパートさんがいましたので、袋詰めにしたり、そういう流れでやっていました。

最終的にはほうれん草のハウス21棟、それからネギ、キャベツ、アスパラ1町(1万平米)、その他にキウイフルーツ、水稲をやっていました。おそらく大熊で畑作としては、私は一番トップクラスでした。自分の農地というのは2町分ぐらいしかなかったけれど、あとは荒れ地、2級農地とか、若者が農業離れていって遊んでいる用地をどうしても使ってくれと頼まれて、どんどんどんどん増えていったというのが現実です。

それで、50才のときに大熊町の町議会議員に立候補して。自分のふるさとだから、第一に考えるのはやっぱり自分の部落。それと農業振興のために。おかげさまで当選しました。


● 震災の時

私は3月11日の午前中、大熊中学校の卒業式に出席していて、それが終わって議会の委員会をやって、2時何分に地震が。天井が落ちてきたり、いろんなことがあって、とりあえず休会にして。部落がどうなっているかを確認しながら、うちの会社の職人たちに「帰れ」と指示をして、家族の安否を確認して。あのくらいの地震なら津波が来たなと自分で感じたので、背広にネクタイだったけど長靴履いて、地区の海岸に行った。(近隣の)おばあちゃんが「うちのじいちゃんと孫がここにいたけれどいないんだ」ってなって。私も必死になって裏山とか、夫沢川のどこかに引っかかっていないかと、もう駆けずり回って、長靴をヘドロでドブドブにして探して。海のそばまで探したけれど見つからなくて。暗くなってきたので、どうしようもなくて。今度は部落の人たちの安否を確認しようと、みんな集会場にと。建設会社の発電機で、集会場だけ電気がかかるようにして、みんな腹減ってきているから持ち寄って何か作ろうよとなって、なんぼか食ったのかどうか。俺もあの頃は焦っていたので記憶にないけれど。それで夜の9時頃、私らは原発から3キロ圏内なので、警察、役場から大熊中学校に避難してくださいと。

今考えると、津波のあと(原発の避難がなく)一晩、1日時間があったら、亡くなった方も生きていたかもしれない。そう今でも考えます。さっき言った海岸に行ったときのおじいちゃんと孫。それと、うちの従業員1人、家に帰る途中に熊川で津波に巻き込まれて亡くなっているんです。半月後くらいかな、やっぱりおじいちゃんが孫を抱くようにして、木に引っかかっていたんです。あと養殖センターの4人が、川の中洲の杉林に引っかかって亡くなっていました。私の従業員も軽トラックで。そういう悲しい思いもありました。

だから震災というのは、本当に気をつけないと、バカにしてはダメですよ。やっぱりそういう考えを若い人たちに持って欲しい。甘く見ないで。自然の力というのはすごいですから。


<聞き書きにご協力くださる渡辺さん>(写真=提供)


● 避難生活

自衛隊のトラックに乗った人もいれば、自分の車で行く人もいれば、そういう大変な時期でしたね。私はそのときに、部落の体の不自由な人らを優先的に携わって。最終的には会津まで連れていきました。その間8回移動しました。中学校に避難して、今度は都路(みやこじ)に避難して、30キロ圏内はダメだということになって、また西へ西へ行ってと言われて。今度は船引と言われたけどいっぱいで、三春との境の小学校に。一週間くらいかな、小学校が始まるということで、工業団地のデンソー東日本という会社に私ら2,000人が入りました。


工場が建設中で、コンクリート、地べたで何もありません。それで毛布2枚もらっただけです。人間はとてもじゃないけれど眠れない。あの当時は賞味期限が切れたパンとか、冷たいおにぎりとかを食べるものですから、なかなか喉も通らない状態で。あそこに1ヶ月近くいたのかな、ノロウイルスが流行っちゃったりいろいろ大変だった。


私は議員をやっていたので、(デンソー東日本があったのが)田村市の町だから、田村市の人間と大熊の人間は差別するのかって、喧嘩したこともありました。最終的には仲良くなったけど、何をやっているんだって。


今後皆さんも大きくなって、社会人になってやっていくときに覚えていて欲しいのは、やっぱりああいう震災や水害で一番困るのは女性です。なぜかって、要するに、女性の生理用品とか、下着とか、歯磨きとか、男はどうにでもなるけれど、女性はそうはいかないので、物資が足りなかった。男の人に配って余ったものを「おばあちゃん、悪いけれど、男物でも下着はこれで着てくれないか」とお願いした。若い人はそうはいかない。泣いて来られたんですね。私のところに。本当にあのときは切なかったね。申し訳ない、涙が出ましたね。歯ブラシを買う金がない、生理があるのにナプキンがないという若いお嬢さん、そういう人がいっぱいいました。


● 避難後、中間貯蔵施設の受入について

会津に大熊町の役場を構えたので、私は2年間会津の仮設住宅にいました。それから、大熊に通って復興を目指して頑張ろうという形で、今までずっとやってきました。うちの会社の従業員と協力会社の人、全部で40人ぐらいいる。大川原地区の先行除染が始まるということで、私らは大川原の現場に入っていって、解体業者とか、中間貯蔵とか、原発の廃炉作業にも入って。


議員最後の3期目は副議長だったけれど、その頃に中間貯蔵施設建設のあれ(問題)があって、いろいろな人から、「渡辺さん、協力してくれないと前に進まない」と。最初は先祖から守ってきた土地を捨てられないという考えが私もありました。ただ、いくら反対しても議会というのは賛成多数ですから。「なんとか協力してくれないか」と。それで、とりあえずハンコ押して、国に協力して、泣く泣くふるさとを手放して。私の友達とかに説明して、「いつまでも騒いだって埒あかないよ」ということで。そういう流れで今までやってきました。


● 原発事故について

我々が大熊に住んでいたというのは、原子力発電所は絶対に大丈夫だって、安全だと、それを常日頃言われていたんです。だけど、たかが水でやられちゃうわけです。あのくらいで止まったから良かったけれど、あっちもこっちも原発がなったらどこに住むんですか。これが東京都の近くでやったらどうなるんですか。あと私が一番腹たっているのは、我々はあの電気を一度も使っていないんですよ。みんな関東地方で使っているんですよ。


私が議員をやっている頃、いろんな風評を被害を受けたじゃないですか。「いつまで金、金って言っているんだ」とか。うちの孫が運動会で走っていたら、「あ、600万が走ってる」と、これを子供が言うんですよ。ちょっと悲しいよね。大人が言っているから子供が真似する。そういうのがあるんです。今でも。


本当は銭金の問題ではない。大熊や双葉は放射能がかかった瓦礫のゴミ溜めです。毎日毎日ダンプあっちこっちから運んできている。私のうちのまわりは瓦礫だらけ。自分のふるさとが。その姿を見たら、皆さんどう思いますか?だからこれを教訓にして、本当に若い人たちに強く言いたいですね。自然災害を甘く見ては行けない、原発事故は間違っても起こしてはいけない。


● 思い出の土地

私は大工の職業ですが、山から木を切って、それを20年間溜めて、それを使って自宅を作ったんです。その家の材料が痛ましくて、今でも心残りです。だから、環境庁さんには、俺の家を壊すときは、俺がやるから他の業者にやらせようとは思っていないと一言言ったんです。私も今解体とかそう言う仕事もやっているので、他の業者に任せたら俺は黙っていないよって、釘をさしているんだけれど。


ドローンで商売人に撮ってもらって残そうと思ってね。今日もパソコンに入れて持ってきたんだけれど。あとブルーレイで見られる。

<大熊のご自宅を収めたBlu-rayDisc>(写真=提供)

この建物すべて私の代で作った。丸太を製版して、削って、自分でつないで。親がいないときに、父親が苦労して終戦後に建てた家を、息子の俺が簡単に壊しちゃうもんだから親父に1回泣かれたこともある。だけど、うちの親父もおそらく喜んでいるんじゃないかなと思って。自分一代でここまでやったから。CDを見てもらうとわかると思うけれど、こういう家だったよって。ちょうど東京電力の敷地から300m先です。田んぼ3枚分。


原発にうちの親父が2町分近く誘致のために協力して、だから我々は原発のあるところもともと地権者なんです。だから思い出がどんどん消えていくっていうか。そんな感じだよね。


先祖から私が引き継いだどれも全部手放さざるを得なかった。だから今後は、私の子供や孫にふるさとを作ってあげないとならないという使命があるので、私はいわきに移住しようという考えを持った。先祖から引き受けた面積だけは、孫たちのためにと思って。住まいはもちろんだけれど農地も、今は1町3反分、いわきに。そこで今はキウイフルーツとアスパラを栽培しています。あとはオリーブ。

● 農業の難しさ

やはり農業は結構すごくかかるんです。はじめは。農業機械が高いし、農業に若い人が入り込むというのは、なかなか難しい。手でやったら面積ができない。やっぱり機械化して、ある程度の膨大な土地がないと、最短で儲けるにはやっぱり無理なんですね。ましてリスクも大きい。天候に左右され、雨にも左右され、いろんな課題があるので、ものによってはものすごく難しいんですね。だから、そういう点では安定性のない職業ですよね。


こないだの台風19号のようになるとね。今年(2020年)も干害で65本枯れました。去年寒くて雨が多かったので、7月急激に暑くなって木が弱って葉っぱがみんな落ちてしまって、枯れて。8月頃に新芽が出て、花が咲いた。季節が狂っていて、今までにない環境なんですよね。フルーツの王国って言われる福島でもそういう現象が。輸入に頼っている日本というのは、将来的にもし政治的な圧力、いろいろなことがあったら、どうやって飯を食っていくのということになる。


私が議員になった頃、大熊町の前町長は「町民はみんな家族」という考えの元、梨とキウイを大熊の町で特産としてやっていて。資材代とか大体80%が補助事業だった。そういう制度があったから、大熊町は梨やキウイだのが盛んだった。やっぱり行政が先頭に立たないと、農業をやりたいという人に補填しないと、農業は復興ならないと私は思っています。


● 続く挑戦

私は震災前、大熊町の双葉商業高校の子供たちに、特産品のキウイフルーツと梨を使ったケーキとかマフィンとかを作ってもらうというか、コラボして、我々も協力してやってたんです。震災後、双葉にはふたば未来学園高校しかないので、そこの大百笑というお店をオープンしたんですけれど、たまたま先生が、私の名前を聞いて訪ねて来たというか。それが縁で、はじめて去年一昨年、キウイフルーツの収穫祭ということで、未来学園の子供たち25名、それと保育園の子供たち27名ぐらいが畑に来て、キウイフルーツの収穫体験を。こないだもちょっと新聞に載ったけれど、ふたば未来学園高校の子供たちが、熊さんの形をしたキウイの焼き菓子ができたということで、発表会みたいな。大熊町長と一緒に映っていたのを私も見ました。あのキウイは私のところから行ったキウイです。


あと今私が1つ計画を立ててやっているのは、酒類の販売業。前からそういうのに興味があって、震災前、大熊の原発の入り口のスーパーの下に山を借りて、私は造成と直売所を作って。造成は終わっていたんだけれど、震災で全部パーになったね。ちょっとしたコーヒーを飲むカフェみたいなものをやりながら、直売所ができないかなという夢があったので。今はたまたま、郷ケ丘にドーム型の喫茶店作って、そこで始めたんだけれど。大熊はイチゴも作っているので、本格的にキウイとイチゴでリキュールの果実酒を作れたらなと今考えています。

♦ 編集後記

どのエピソードを選ぶか決めることができないほど、全てが濃く貴重なお話でした。本文に載せることができなかったお話の中から一つ、私の印象に残った言葉を、ここでご紹介させて頂ければと思います。

「原発は電気料金を安くできる、そう言う。でもそれはどこで安いのか。一度壊れたら、更地にするまでにどれだけのお金と時間が失われるか。環境のためにと言うけど、自然エネルギーは値段が高い言うけど。農産物にしても同じです。安ければ誰でも喜ぶんです。でもそれは農業の夢をなくしてる。だから消費者には、どこで安いのか、高いのか、値段だけじゃない部分を真剣に考えてもらいたい。」


今回、想像では補えないほどの葛藤と苦難の数々があったことを改めて知りました。渡辺さんの、これまで守ってきた大熊町長者原の土地への想い、自然災害に対する想い、そして日本のこれからのために農業をどうにかしたいという想い、そういったメッセージの数々を少しでも多くの人に伝える役割が、この活動を通して担えたらと思います。


【編集者:鈴木愛奈】


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